幸福日和 #066「光に触れてゆく」
日常は色々な光で溢れている。
この時期ともなれば、
クリスマスを彩るイルミネーションや、
大切な人とともに眺める美しい夜景。
そうしたあらゆる光に心を慰められては、
人々の心の中に新たな光を灯していく。
そうした人の創り上げる人工的な光は、
もちろん素晴らしいけれど、
時には自然そのものが生み出す光にも
触れていきたいとも思うんです。
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誰もが心癒されてているであろう
朝日や夕日を映し出す「陽の光」。
夜明けとともに人々の営みを照らしていきながら再び夜に溶けていく。
その光の運動はいつだって規則正しい。
忙しい日々の中では、
そうした自然の光を目にすることは難しいとは思うけれど、
そうしたものと向き合う時間のゆとりを持ちたいとも思うんですね。
例えば、朝日とともに一日を迎えて、
夕日を眺めながらその日を終えてみる。
それだけのことをするだけで、
その一日の受け止め方はまるで違ってきます。
その昔、僕はしばらく始発で会社へと向かい、
終電で帰宅するという日々を送っていた時がありました。
家と会社をつなぐ電車の車窓から見えるのは
いつも夜が明ける前の静かな闇であり、
深い夜へと向かう日没の景色でした。
太陽の光が日常を照らす頃には、
僕の時間の多くは無機質なコンクリートとガラスでできた
オフィスの中だけを流れていました。
ある時、そんなオフィスの一角で
ガラス張りの向こうに立ち上がる朝日を迎え、
そして夕方になれば陽が沈むのを見届けるということを
習慣にしていたことがあるんです。
どれだけ忙しくても、
そうやってガラス越しの陽の光を眺める。
ただそれだけのことで
積もりに積もった悩みが拭われ
荒んだ心があらわれたことを
昨日のことのように思い出します。
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自然の生み出す光は、
陽の光だけではありません。
生き物が生み出す光というものもある。
例えば「蛍の光」
夏の京都に滞在すると、
僕は必ずその街で蛍を見ることにしていました。
意外と知られていないけれど、
京都市内を流れる高瀬川の水の辺りでは蛍が出るんですね。
森鴎外の小説「高瀬川」に描かれているように
その川は幾人もの人の思いを受け止めながら
多くの罪人の(複雑な)想いを送り届けた。
そんな想いとともに、よく高瀬川沿いの蛍を眺めたものです。
昔から「蛍の光」とは、
亡くなった人の光でもあると信じられてもきました。
その川で灯る蛍の光を眺めながら
時代をこえた様々な思いに
自分の気持ちを照らし合わせてもいました。
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また、蛍の光と言えば、
忘れられない思い出もあります。
山梨に行った時のこと。
「蛍提灯」なるものに出会ったことがあるんです。
それは、その土地に古くから伝わる風習のようで、
蝋燭のともし火の代わりに、
蛍の光を灯火にしてお墓まいりに行くのだそう。
そうしてお参りが終わったら、
再び夜空に蛍を放つのだという。
生き物の放つ光だけで、
生き物を弔う。
その土地の人々が考え出した、
そうした知恵と美しい想いに心が震えた。
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僕たちは光溢れる生活の中に生きているけれど、
実はその光の多くが人工的なものであることを忘れている気もする。
時にはそうした自然が生み出すあかりに
素直に向き合ってみたい。
そうした光の中で自分を照らしてゆきたい。
孤島の夜空の下で、月の光を浴びながら、
そんなことに想いを巡らせています。