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胎内記憶から今まで ②

こんにちは、あるいはこんばんは🌙

安岡 葉(よう)です。

胎内記憶から今まで、②です。
①をお読みいただいた方はお分かりかと思いますが、ここから先は、スピリチュアル要素満載の内容となります。
そして、虐待を含む内容も満載です。


注:下記にあてはまる方は、ここから先はスルーして下さい。
読んだあとの苦情や否定のコメントは削除致します。

注1:スピリチュアルが苦手な方はスルーしてください。
注2:胎内記憶を信じていない方はスルーしてください。
注3:虐待の内容にトラウマがある方、苦手な方はスルーしてください。



お読みいただきありがとうございます。
今回からご覧の方は、お時間があれば①からお読みいただけると幸いです。

①の続きです。


私は、言葉を理解しているだけでなく、見えざるものが見える能力も、胎内記憶とともにすでにありました。

この能力は、母親の父方の家系に出る遺伝で、小さな頃は死霊や化け物、鬼が生きてる人間と同じように見えていたため、まっすぐ歩けなかったり普通に会話したりするので母親にとても不気味がられました。



日々両親から虐待を受けていた、私の当時の楽しみは、兵庫県西宮市にある母方の実家に住んでいた母方の祖父、祖母に学校の長い休みの時に会いに行くことでした。

祖母はとても穏やかで優しく、私が遊びに行くと、「晩御飯はお肉がいい?お魚がいい?」と聞いてくれて。
一瞬にご飯を作ったり、お菓子を作ったり、編み物や裁縫を教えてくれたり、祖母は私にとって、初めての安心できる優しい身内でした。

祖父は、愛のある厳しさと深い優しさを持った人であり、早々に私に能力が遺伝していることに気がついていました。
祖父の家にあった、生前禅を極め老師でもあった曾祖父の書いた書や掛け軸に住んでいる、小さくなっている龍神様が(正式な数は記載できません)住んでいました。

私は、その小さくなっている龍神様とよくお話をしていました。
それを見ていた祖父は、私に能力が遺伝している確信を持ちました。



そして、虐待されていることにも何も聞かず何も言いませんでしたがもちろん気がついていました。
私が言葉を大方理解していることにも気がついてくれ、帰るときは色々な本を持たせてくれました。

滞在中は本もたくさん読ませてもらい、祖父の家は本当に居心地よくて。普段虐待されている私の心と身体の傷を癒すことができました。

祖父は私の怪我の手当てをさらりとしてくれて、殴られ過ぎて耳を痛めていた私に薬を処方してくれて、それが私にはとても嬉しい事でした。


家に居る時は、時々夜中に酔っ払って帰ってくる父親がいつ帰ってくるかわからない為、私は3歳頃には夜眠れなくなってしまっていました。うとうとできても、小さな物音ですぐ目が覚めてしまいます。
昼間はとても眠いので、学校に行っても授業中ずっと寝てしまう状態でした。

私は、18歳になり過労と睡眠不足で倒れるまで、睡眠障害ということに気がついていませんでした。

でも、祖父宅に滞在している間は、祖父と祖母のおかげで一度も起きることなく眠るということができました。


それから私宛に祖父からちょくちょく電車の切符が送られ、私を心配して忙しい身でありながら、私を呼んでは自らも能力者である祖父は力の使い方を教えてくれました。
当時人も化け物も死霊も同じように見えてしまっていた私に、普段は人以外はフィルターがかかるような力のコントロールを教えてくれて、危険な目にも遭いにくくなりました。

そして、私が興味を持っていた色々な世間の事を教えてくれました。
小さな頃は、家の中と親兄弟が自分の世界の大きな割合を占めており、私は早く家を出られる年齢になることを楽しみにすることで希望を見出だしていました。
そのことも祖父は理解してくれて、新聞やニュースの意味や世間のしくみを分かりやすく教えてくれました。

私は祖父の話を聞くのが大好きで、海外にもよく行く祖父の話は、私にとっては非日常でワクワクして色々想像したり、大人になるのがますます楽しみになりました。

祖父は医師でもあり、絵描きでもあり、オーケストラを趣味でたしなみ、スイッチが入るとジャズピアノを弾きまくっていました。
音楽と対峙しているときの祖父は、楽しそうでもあり、何か鬼気迫るものもあり。
普段仕舞っている感情をピアノにぶつけているように感じる時もありました。

そして、祖父は私を散歩にも連れていってくれました。
たまに従兄弟も集まったときに、祖父が注文してくれたお寿司をとりに行ったり。頼めば配達してくれるのですが、従兄弟がいると修行もできないので、散歩につれだしてくれては、色々な話をしてくれたり、色々教えてくれたりするのがとても楽しみでもありました。


実家の近くに、西宮神社(通称えべっさん)という神社があります。
お正月10日前後に開催される、「十日戎(とおかえびす)」では、ニュースで毎年放映されている、「福男」を決める行事が有名です。
朝6時に神社の門が開き、開門とともにくじ引きで当たった人が一生懸命走って一番になった人がその年の福男とされる大変おめでたい行事です。

十日戎の期間中には、関西だけでなく全国から商売人や経営者の方などがお参りに来て、お店もたくさん出てそれは賑やかなのです。
今年はコロナで参拝を自粛しましたが、落ち着いたら参拝に行きたいです。

その西宮神社にも、祖父とお散歩に行くのが楽しみでした。

そして、お散歩がてら参拝して、感謝を伝え、狛犬さんにご挨拶をする。
このことが、後の私にとてもびっくりでもありハッピーなことをもたらします。
それはまたおいおい順番に書きますね。

今思うと、母方の祖母と祖父のおかげで、小学生までを乗り切れたと思います。
辛い日々でしたが、希望を持てるようになったのも、祖父のおかげであり、今でも感謝しています。


私も、祖父に影響を受けてピアノが欲しいと思うようになるのですが、ピアノを習う余裕などもちろんなく、買うお金のなんてもちろんなく。
幼稚園のオルガンやピアノを時々弾いていたのですが、そんな私にある日突然ピアノが届きました。

ボロい家だったので、床が抜けるのではないかとドキドキしつつ、嬉しくて、ピアノを習いに行くお金も、全て祖父が払っていてくれたそうです。

私は、決められたことをするのがとても嫌だったので、基礎の本が終わってからは好きな曲を選んで弾かせてもらっていました。
それがとても楽しくて、嬉しくて私は将来音楽の道に進みたいと思うようになりました。

・挫折と新たな希望

そう思いだした小学4年生の時、事件が起きました。
小学5年生に上がる直前、前の日が小学校の卒業式で、部活の前に折り畳みの椅子を片付けてから部活と言われたので、みんなで椅子を片付けていました。

ステージの下に、椅子を仕舞う大きな引き出し式の収納があり、畳んだ椅子をそこに並べ、収納した時、突然私の左手人差し指から血が大量に吹き出し、その後痛みがやってきました。

普段から虐待されており痛みに関してはかなり耐性があったのですが、指先だし尋常ではない痛みに、保健室の先生の所に行きました。
先生が良く見ると、私の左手人差し指の先が千切れてしまっていました。

その日は祝日か日曜日か記憶ないのですが、やっている病院を探して保健室の先生が簡単な止血をして病院に連れていってくれました。

そこで、病院の先生に見せたところ、ちぎれた指先を洗って、残った骨が飛び出ていたので、局部麻酔をして骨を切って。これが麻酔しててもめちゃくちゃ痛くて、脳に響く痛さでした。
あとは傷口をまとめるように縫い合わせ、今日は痛いし熱が出るからと、解熱剤を処方してくれました。

保健室の先生は、私が虐待されているのを知っており、病院にも何度も連れていってくれているので、何も言わず家まで送り届けてくれました。

母親に状況を説明してくれ、病院代はかからないので毎日消毒に通うように伝えてくれました。

母親は面倒臭そうに仕方なく話を聞いていましたが、私はそんなことより、ピアノも弾けなくなってしまったし、部活もバスケ部にせっかく入ったのに、治るまで何も出来ないことがとても悲しかったです。

指は、ちぎれた指先は一年ほどかけて徐々に肉がつき、傷がふさがりはじめて、ちぎれた分第一第一関節が短く不恰好な形ではありましたが、幸い爪の根元が残っていて爪が生えてきた為に治りは思いの外早かったそうです。

それでも先端は骨も神経もなく、弾きたいピアノの曲も弾けなくなってしまいました。それを何とか克服しようと四苦八苦する私に、ピアノの先生は、「もうピアノは諦めなさい」と言いました。


私は、とてもショックで本当の意味の初めての挫折でした。
それでも、私は音楽を諦めたくありませんでした。

家に置いてあったガットギターを、弾いてみることにしました。
本屋さんでギターの弾き方の本を読んで、何とかコードが弾けるようになりました。

それでも、ピアノ同様ギターも弦楽器なので、人差し指の先に感覚がない私は、人差し指を立てて単音で弾くということが、未だにできません。
人差し指自体の動きも、あまり良くなく、時々ギターを押さえる人差し指の力が入らないときもあります。


色々あって工夫して、骨がある部分で何とか押さえてコードも弾けないコードもあるけど曲を作るには問題ないくらいにコードは覚えました。

それが嬉しくて、ずっとギターばかり弾いていました。

家に居て、虐待されても、血が繋がっているだけの家族という名ばかりの存在が誰も味方をしてくれなくても、そんなことどうでもよくなるくらいに楽しいことを見つけてしまったのです。

自分を表現する方法が見つかったことがとても嬉しくて、私は16歳になったらお金も貯めて家を出ることに決めました。

③に続きます。
お読みいただき、ありがとうございました!

時間軸が少し行ったり来たりしていますが、ご容赦下さいませ。


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