自己紹介ざっくり履歴② 「私ばっかり、ではない」
こんにちは、あるいはこんばんは🌙
安岡 葉(よう)です。
自己紹介第二弾です。
少しずつ書いた記事を投稿させていただいておりますが、まだきちんと自己紹介していないので、興味のある方はどうぞ。
ちょっと長いので、分けて投稿します。
虐待とスピリチュアルを含む内容ですので、苦手な方はスルーして下さいね。
自己紹介ざっくり履歴①をお読みいただいた方から、質問をいただきました。
①はこちらです。https://note.com/freedom_you/n/n9ebd3df24f
しかも、同じような質問をSNSのメッセージで複数の方からいただきましたので、先にお答え致します。
・「虐待されていた時期は自我を保てていたのか」
・「当時、現在、心を病んでいないのか?」
この2点について、お答え致します。
まずは、
「虐待されていた時期は自我を保てていたのか?」
虐待されているときは、身体の主に外側(内部に至るときもあります)に傷を負うことになります。
もちろん痛いですし、後も気分が悪いですし、早く終わらないかなと毎回思っていました。
しかし、父親はとても弱い人間で、自分より弱い私を傷つけることにより、父親は自分を私より強いと確認することで保っていたように見えたので、罪を憎んで人を憎まず。
こう表現するのが一番しっくり来ます。
弱いものしか傷つけられない、残念で可哀想な人間なんだなと、思っていました。母親も同様です。
そういう答えに至ったので、私は自我を保てていたということです。
完全に精神を切り離すことも考えましたが、それをすると、いつか完全に分離してしまうのではと考え、やめました。
そして、虐待は永遠に続くことはないと解っていました。打ち所が悪ければ今生きていないかもしれませんが、私は虐待では死なないという確信がありました。
「当時、現在、心を病んでいないのか?」
当時、いつ帰ってくるかわからない父親は、酒を飲んで夜中に帰ってくると、私を布団から引きずり出して気が済むまで暴力を振るいました。
私は、いつ帰ってくるかわからない父親の物音を気にするようになり、不眠症になりました。
未だに物音で目が覚めやすいですし、現在も一番軽い睡眠導入剤でスイッチを入れないと眠れませんが、うつ病などの精神疾患はありません。
睡眠障害と診断された時に処方されていた強い薬でも、最初は脳が覚醒しきっていてなかなか効きませんでした。
現在は一番弱い睡眠導入剤で眠れるようになりましたが、飲まないとスイッチが入らないので睡眠に入れません。
うつにならなかったのは、私のもって生まれた気質と、父親は嫌いでしたが残念な人間で気の毒にも思っていたため、虐待の事実と両親の残念な人格を区別して認識することで、自分のなかで折り合いをつけていました。
当時も、現在も、うつ病などは発症していません。
以上がご質問いただいた回答です。
個別ですと長くなるので、こちらで失礼致します。
うつにならなかった思考としては、「私ばっかり、ではない」と思っていたことも大きいと思います。私ばっかりこんな目にあっているわけではない。ということ。
「何で私ばっかりこんな目に合わなきゃいけないの?」って自分可哀想アピールして誰かのせいにしてれば、一番楽。傷つきたくない人がやりがち。
でも自分でなにくそ!と思って行動しない。文句ばかりで受け身。
サラリーマンだった時、新人教育していても、同じチームで仕事していても、成長しないのは、こういう思考の人が多いです。いち早く仕事を覚えてやろうとグイグイくる方が、私は好きです。
私の付き合いの長い友人は虐待を受けていた経験がある人が多いです。
それぞれつらい経験をしているのにも関わらず、うつ病など精神疾患を患っていません。
つらい経験を糧にして一生懸命生きています。
精神疾患はありませんが、自己肯定が苦手、自己評価が低い方が多いです。
仕事もしていてそれなりの立場になっても、自分に自信が持てなかったり、父親に虐待されていた子は、男性に対する不信感が大きすぎて一生独身宣言をしている子もいます。
私も男性が怖いというより、20代前半までは男性に対するコンプレックスがありました。
そのコンプレックスをモチベーションに変換して、仕事に燃えていた時期です。
20代後半になると、男性に対するコンプレックスもなくなりました。職場の一番上の上司に恵まれたお陰かなと思っています。
当時は同じ仕事をしても男性の評価が高かったのに、男女分け隔てなく仕事の成果で評価してくれたのが嬉しかったです。
虐待は、うつを発症しなくても、その後の人生に多かれ少なかれ影響を及ぼします。
私が虐待されていた頃は、「しつけ」の一言で片付けられることがほとんどでしたが、今は通報したりできるので、近所にいつもあざだらけの子がいる、いつも怪我をしていてもろくな手当てがされていない、異常に大人に怯えているなど、あれ?と思う子供を見かけたら、児童相談所に通報して下さい。
保護されて助かる子供たちもたくさんいます。
親の虐待は、どんどんエスカレートしていくことが多いです。
前置きが長くなりましたが、ここから本文です。
・遅刻魔担任(中学3年)の続きから。
どんなお話だっけ?という方は、前回を読んでみて下さい。
その遅刻してくる担任は、私の父親に虐待しないようにはっきりもの申しに来てくれて、それから私は、嫌いな学校にも行くようになった。
本当に教師かと思うくらい適当な担任は、途中から学校に行くようになった私を他のクラスメイトと同じように扱ってくれたおかげで、私はクラスメイトとだんだん普通にあいさつしたり話もできるようになった。
私は、進路を決めなくてはならない時期になり、兄は甘やかされ続け一切勉強してなかったので、お金もないのに私立に行き、私の選択肢は公立一択。
勉強させられている感が嫌いなだけで、勉強ができなかったわけではないので、担任が3年の出席日数を適当にごまかしてくれたおかげで公立に受かり、苦痛な中学生活を卒業した。
この変わり者の担任は、卒業してから飲みに行ったり、バイトしてたお店に飲みに来てくれたり、何かと気にかけてくれてとてもありがたかった。いまでもとても感謝しきれないくらい。
・高校の校長が✕✕✕✕
公立高校に何とか合格し、必要なものを準備したりする説明会に行った。
そこで出てきた校長は、女性の校長で、化粧と香水くさく、かなり太ったふてぶてしい感じ。
壇上に上がると、いきなりこうのたまった。
「お前らはバカなガキだ。私は校長だ。バカはバカらしく私の言うことを聞いておとなしく3年間過ごせ」
中学でも、高校でも、いわゆるヤンキーがまだ蔓延っていた。
私の通う高校も普通科だけではなく家政科という女子のみのクラスがあり、家政科は一部の子を除いてほとんどヤンキーで構成されていた。
ヤンキーにはヤンキーの事情があり、私の小学生の時から仲良くしていた子も、家庭環境が微妙で中学で立派なヤンキーになっていたが、普通によく遊んでいた。
私はヤンキーも、バンドマン(女子も)もて余したエネルギーの行き先が違うだけだと思っている。
服装の好みやセンス、趣味が違うくらいの事で。
夏休みにライブも多いし金髪にしたら、近所で噂になる時代だった。
そして、説明会でいきなり新入生を全否定するこの校長。
この校長には、後にまた酷いことをされる。
そして、この高校の教師は、私が関わった教師でまともな人間はいなかった。
・友人の部活顧問はド変態
高校に入って、初めて友人ができた。
私が好きなバンドと同じバンドが好きで、話が合い、そして彼女も父親に虐待されていた。
だが、彼女のお母さんは全力で彼女を庇ってくれていた。
私は、父親が帰ってきそうな日、彼女の家に時々泊めてもらうようになっていた。おばちゃん(彼女のお母さん)の作るお好み焼きが美味しくて、いつも私が行くとお好み焼きを焼いてくれた。
私の居場所が、1つ増えたことがとても嬉しかった。「いつでも来ていいからね」と、おばちゃんが言ってくれて、その一言がどれだけ私を強くしてくれたことか。
中学3年の担任同様、当時の私にとって尊敬できる大人だった。
その友人が、写真部に入った。彼女はカメラマンか、スタイリストか、ヘアメイクさんになりたいという夢があった。3択だったところは置いておいて。
私は、まずは家を出るという第一段階をクリアしないと自由になれないので、お金を貯めるためにいくつもバイトを掛け持ちしていた。
夢、考えたこともなかった。余裕もなかった。
バンドをやっている時は本当に楽しいし、これからもっと楽しいことがあるかもしれない。
そこから将来の夢が生まれるかもしれない。
私の希望が1つ増えた。
そして、写真部に入った友人は、写真部の顧問がド変態ですぐに辞めてしまうことになる。
写真部の顧問は、友人に、中学生の時の制服や身に付けていたものを売ってくれないかとしつこくつきまとった。
そして、友人と同じバイトをしていたので、部活が終わるのを待って一緒にバイトに行こうと待っていた私にも、中学生の時の制服を売ってくれないかとしつこく言ってきた。
セーラー服上下で5万出すと具体的な金額を提示してきた。
しつこいしとにかく気持ち悪いので、私はずっと無視していた。
友人は部活に行く度に同じことを言われるし、カメラの使い方といってベタベタ触ってくるから本当気持ち悪い!
といって、部活を辞めてしまった。
その高校には、何故か50メートルプールがあり、水泳の授業があった。
私は水泳の授業は全て見学。
鼻の毛細血管が虐待のおかげですっかりイカれており、ちょっとした刺激ですぐ鼻血が出るので診断書を出して見学していた。
見学していると言っても、暇なので外を見ていたら、プールを見渡せる桜の木に、誰か登っている。そして、首からカメラ。
あの写真部顧問のド変態教師だった。
水泳の授業を盗撮していたのだ。
私は、そっと抜け出して棒を持って桜の木に向かい、夢中で盗撮していた変態教師を棒でつついたら、勝手にバランスを崩して木から落ちた。
今なら、ただでは済まないが、当時は一月くらい謹慎しただけで、すぐに復活した。
本人は悪いと思っていないので、辞めそうなものだが、普通にまた教師として勤めていた。
私を見ると逃げるようになったので、私と友人の気晴らしになった事件だった。
長くなりましたのでこの辺で。
③に続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。