エゴは悪ではない。
他人の言動が気になる人はコントロール欲が強い。
人を助けたいと思う心もコントロール欲。
コントロール欲が悪いということではなくて、その欲の奥にあるものを見つめる勇気がある者が少なく、多くの人がこじらせています。
私もこじらせる時があります。
究極を言えば、私たちの内側から生まれる思考の発端は、愛か恐れか、しかないのです。
だから仮に、他人に何かを提案をしても、その人と同じ行動にはならないことが多いのです。
愛から生まれたものを提案しても
受け取る側に恐れが強いと、解釈が違うのですから行動も違ってきますもんね。
恐れはエゴをこじらせます。
エゴがあることを悪とするのもこじらせです。
人間からエゴを無くすことは不可能です。
エゴを持っている、これこそが人間という生きものなのだから。
エゴをなくそう、エゴは悪いという思考は立派なエゴです。
エゴ(恐れ)にまみれた欲を「悪」として裁いてきているのなら、自分の中にあるそのエゴ(恐れ)に蓋をしたくなります。
自分はそんな人間ではない、と認めたくない心理が働くからです。
あるんだよ。
みんなあります。
ないものなんてないんです。
この言葉の意味は
「者」であり「モノ」。
意識は無限の中に存在するのだから
人の概念でつくられただけの「善」や「悪」にとらわれる必要はないのです。
ひとつの視点からみると善であっても、反対側の視点からみると悪になる。その逆もあり。
ただ、無限の視点からみると、どちらも「ただある」だけでなんてことはないことになります。
正しいことを主張しようとする時、俯瞰してみると「ただある」に変わる。
そして自分の正しさを主張したい時、自分の中にコントロール欲が湧いてきていることに氣づきます。
こうした他をコントロールしたい心理は、独裁者と同じ心理なのです。
そうすると、裁きたいと思っていた「悪人」という人たちと同じ「独裁者」というこころが自分の中にあることに氣づきます。
人間はこのように 自分の中の偽善を振りかざし、他を裁こうとする愚かなこころを持っていますが、こうして氣づくことは、創造主とコンタクトをとっている証でもあります。
氣づきの先に私たちがすることは…
それを許すことです。
持っていていいんだよ。と自分に声をかけてあげてください。
とことん愚かな自分を許してあげてください。
抱きしめてあげてください。
そして心が安堵感に満ちた時、
本当はどうしたいの?と自分に聴いてみてください。
本音はなかなか出てこないかもしれません。
こころが軽やかになるまで、何度も何度も許し、愛して、訊ねてみてください。
忘れてはいけない。
人間にも創造主が宿っています。
そして創造主とコンタクトを取らさないように、長い年月、洗脳されてきた生きものなのです。
情報、どんなに知識を詰め込んでも、この知識で他を否定したりコントロールしようとしていては、洗脳が解けたというには程遠い位置にいるのです。
すべてはあるのです。
私たちはすべてをもっています。
そして創造主はそれらにジャッジをしていません。
すべてを無条件に愛しています。