気づきのメモ〜「ひっかかる言葉」と「ざらっとした違和感」。
こんにちわ。karo.です。
連休中、怒涛のように働いている中で、瞑想中にふと「気づき」について降ってきた気づき?(笑)みたいなことがあったので、自分のメモも兼ねて描いておこうと思います。
ひっかかる言葉。
私は周期的に、ひとつの言葉がアタマの中に浮かび上がってきて、しばらく滞在していることがあります。たとえば20代〜30代の目覚めはじめる前の頃はひたすら「強くなりたい」と思っていました。あ、これは言葉ではなく思いですね...。(苦笑)
そのあとは「どう在りたいか」「丁寧な生き方」「パブリック(公的)」「自分の気持ちにどれだけ誠実でいられるか」「透明な筒」「スペース」...などなどで、これらは、きっとその時に読んだ本や、聞いた情報などから、言葉だけが残って浮かび上がってきて自分の中に滞在しているという感じなのですが、きっとその時々の自分に必要な何かなのだろうと思います。
自分の中のテーマ、キーワードのようなものという感じでしょうか。ちなみに最近は、言葉以外にも音楽(メロディ)の時もあります。
ざらっとした違和感。
話は変わりますが、誰かとのやり取りの中で、ざらっとした感覚の違和感みたいなものを感じることってありませんか?
たとえば、ずいぶん前ですが、私は泳ぐのが好きでスポーツクラブのプールで泳いでいると「毎回の何キロ泳いだかと、タイムを記録できてとても便利なので、カルテに記入してください」と言われました。そこで「ん?なんのために?」と、ざらっとしました(笑)。
私は泳ぐこと=瞑想だったので、今日何キロ泳いだ。とかタイムとか関係ないのです。つまり目的が違うのですよね。でも、当時はそこまで考えて泳いでいなかったので、そう言われてざらっとしたことで、自分が何故、泳いでいるのか、気がつきました。
最近では、noteをはじめたことで、周囲からいろいろな意見をもらえます。そんな時にたまに、同じようにざらっとする時もあって、「ああ、なるほど。」と、自分の本意が確認できるので、とてもありがたいです。
ちなみに、こうしたnoteのような媒体を使って表現をしていく時に「自分がどう発信をするのか?」とか「どう見られたいのか?」とか「誰に向けてなのか?」とか、一度くらいは考えたりすると思うのです。
確かに自分だけが読む日記ではないわけで、発信している意味というものがありますよね。それは何を目的として発信しているのか、どのような価値観を持って生きているのか、によって答えはまったく違うと思うのですが、この「自分がどう発信をするのか」「自分がどう見られたいのか」というのは内と外のように見えて実は外向きを基準にした考え方だったりします。この間のところに「どう在るか」というゼロポイントが在る。とふと思ったのです。
その間にあるもの、越えたところ。
そして、このまったく別の事案で発生しているはずの「ひっかかる言葉」と「ざらっとした違和感」というものについて。
このふたつはコインの裏表のように2つともが、元はひとつなのかもしれまないと思いました。そして、うまく言えませんが、たとえば「ひっかかる言葉」が自分の中に生まれていたとします。そういうときに「ざらっとした違和感」というものに出会って2つがふっと合わさる時、この2つの間にある部分、そこに新しい空間が生まれて「あ!」と気づきがおきる。と、いうことなのだと。
完全にイミフですね〜(笑)
ではでは、またー。