目覚めのプロセス#2〜気づきのはじまり2
新しいフェーズのはじまり
夫と別居することが決まったあとに、私は断食道場に7日間行きました。精神世界に触れるようになって、自分を浄化したくなったのですね。ただし精神世界の本をたくさん読んだとしても、それですぐに目覚める訳ではないのですよね。知識は増えてもそれはまだ表面の部分に貼りついただけで、さらに言えば、内容の理解力も乏しかったと思います。どんな情報もそうですが受け取る側の理解力に左右されますから、表面的には解った気になっても中には浸透していないのです。そして確かに自分の中で眠っていた本来の自分がちょっと顔を出して「この本に書かれていることは真実だな...。」と感じはじめるのですが、それでこれまでずっと肥大化し続けていた自我がすぐになくなるわけではないのですよね。
自我の抵抗
夫と私は同じ会社に勤めていたのですが、私は仕事を辞めて小さなアパートに引越しました。家庭も仕事も失って一人になった私には「こんなはずではなかった人生」がどーーんと、初めて自分の目の前に来ました。責め続けてきた格好の相手がいなくなって、もう誰も責めることができなくなった訳です。私の自我にとっては一大事でしたから、最初は夫との復縁をどうしたらできるのか、ばかりを考えていたように思います。つまり投影する相手がいなくなったことが苦しかったのですね。精神世界の本でわかったような気分になっていたけれど、結局は当時は夫を取り戻す道具として自我が使っていたのだと思います。つまり相手を変えられないのであれば、自分が変わればいい。自分が変われば相手も変わってくれるはず。という理論です。ですが夫は別居後、連絡が取れなくなりました。いよいよ投影する相手を失ったとわかると最初はパニックになり、慌てました。そのあとはただボー然となってしまい、責めるエネルギーは完全に行き場を失って自分に向かうようになりました。これまで生きてきた自分を責めはじめ全否定するようになり、うつ状態になりました。当時は死ぬことも考えたと思いますが、ふたりで飼っていた猫を私がひきとって一緒に暮らしていたので、とにかく猫のために生きている。という感じで、猫の存在だけが自分の生命をつないでいるような状態でした。
本来の自分がチラリと姿を現して...
そうして毎日を亡霊のように過ごしながらも、パソコン通信で知り合った女性とは別居後もずっとメールで対話をしていました。人と対話をすることで、自分の中にも対話が生まれます。唯一、この対話が人との繋がりで、そしてこの対話があったからこそ、徐々に自我が弱っていき、正気を取り戻せていけたのだと思います。相変わらずの図書館通いとメールでの対話をつづけていたある日、それはまるで白日夢のような状態で、部屋の暗闇の中に小さな小さな子供のような姿が膝を抱えて横たわっているのが見えました。(朝倉世界一さんの『山田タコ丸くん』という漫画をご存知でしょうか?大好きな漫画だったのですが、その中に出てくるへちまちゃんみたいなイメージでした(笑))小さーくなっているその子を見つけた私は号泣してしまい、何故か「ごめんね、ごめんね」と謝っていました。涙がとめどなく溢れ、しばらく泣いているうちに消えてしまったのですが、今思えば、その時にやっと消えかかって瀕死の状態だった本来の自分が姿を現してくれたのだと思いました。こんな体験をしながら、少しずつ心が落ち着いていきました。この時間が必要だったのですね。引きこもり生活半年ほどで、やっとアルバイトなどをはじめ、社会生活に戻っていけるようになりました。
この時に見つけ出した臨時の答え
そして、ずっと考え続けていた「愛とは何か?」の問いに、当時の私が絶対的な答えとして考えた結論は「愛とは責任である。」でした。人間関係も仕事もすべて責任を持つこと。責任を持ちたいと思うものの中にこそ「愛は存在する」という考えに至っていましたので、それ以外は「愛」とは呼ばない。と結構かたくなに思っていました。なので、この時にもまだ私の自我が夫を責めていましたね。「夫は責任を持てない人だったから愛がなかったんだ」ってところでしょうか?(笑)「愛」については、今は全然違う解釈になりましたが、でもこの持論は本当につい最近までずっと信じていました。3次元の中においての「愛」についての解釈の中では、なかなか良い答えだったと思っています。確か『星の王子さま』の本の中にも「これは自分が毎日水をあげている花だから特別な花なんだ。」というようなことが書いてありましたよね?
また、この「愛」についての解釈の延長線上で、どのような行為行動も「動機がすべてである」と思っていました。同じ掃除をするのも「ここをきれいにしたい」と心から感じて掃除するのと、誰かに言われたからいやいや掃除するのでは結果が全く違う。ということに気づいて、この頃から心の存在と作用に対してやっと目を向けるようになった感じでした。
今の私から見ると、当時のこの答えはまだまだ3次元的な考え方だったな〜、と思いますが、自我に占領されていたそれまでの自分からは大変換でした。
ここからまだまだ目覚めのプロセスは続いていきます。