「時間」の探求は続く 〜今日起きた気づきと手放し 「時間は愛」だと思っていた
こんばんわ、Kaloです。
今月はどうも「時間」の探求月間のようで、今日気づきがあったので、備忘録をかねて書いておくことにしました。
今日は、毎週土日に開かれているファーマーズマーケットに久しぶりに買い物に行きました。
ちょうど自転車の後ろタイヤのブレーキゴムが摩耗していたので、途中のサイクルショップで、マーケットに行っている間にブレーキゴムを交換してもらうことに。
修理のお兄さんに自転車を見てもらうと「自転車の前のタイヤのブレーキ、ほとんど使っていないでしょう?」と。
「車のタイヤだって4つあるから全部のタイヤにブレーキをかけるわけで、自転車もタイヤが2つあるんだからどっちのブレーキも使わないとダメ。」と言うので「うちは坂道が多いから下り坂は後ろブレーキを使うんです。前ブレーキを先にかけるとこの自転車は軽いので、前のめりにひっくり返ると言われたし。」と私はちょっとだけ不機嫌になって答えました。それでも「こういう自転車は〜…」とブレーキの話は続きます。私は「んーーー、この人めんどくさいーー」って思って、「えっと…他にも自転車のカゴのネジが緩んでいるので〜」と話題を変えて、そちらの修理もお願いしました。
お兄さんは「カゴのネジも緩んでるけど、けっこう重い荷物乗せてるでしょう?だいぶ曲がってるよな〜」とまた長々と話してきていたので、「え〜、もうなんなん?」と思って「すみません、修理は何時に終わりますか?その間、買い物してきますので」話を途中で切って、自転車をお願いして店を出ました。
そこからマーケットまで歩いて20分くらい。
ひたすら歩きながら、「なんだろう?これ?」って思ってました。
この「なんだろう、これ?」っていうのは、最近は関わるすべての人が自分へのメッセージだなぁ。って思っているので、自分の感情が反応する時は「何のメッセージなんだろうなぁ?」って、つい考えてしまう癖になっている感じです。とはいえズバリな答えが出るわけではないし、この時はよくわからず。とりあえず考えるのも続かず、やめて「機嫌なおしていこう」とだけ、思いました。
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そのあとはマーケットに着いて、いつもの大好きな無農薬野菜が買えるお店で、新鮮な生山椒の実を見つけて「きゃー♡」っとなって、お店のお姉さんと食べ方について談笑しながら、買いたかった生マッシュルーム(最近、生マッシュルームかじるのがマイブームなので。…って、どうでもいい情報〜(笑))とたくさんの野菜を買ったら、「おまけ」と言って生しいたけをひとつ、私の手に握らせてくれて(笑)、そのあとにはナチュラルハウスで大好きな米粉パンをいくつか買って、ウキッとして帰りにに自転車を取りに行って、時計を見たら、ちょうど修理が終わると言われた時間でした。
先ほどのお兄さんはそこにいなかったので、ちょっとだけホッとして、別のお兄さんに修理の控えを渡して、私の自転車を探してもらったら、先ほどのお兄さんがまだ修理の最終調整をしているところでした。
私は「じゃあ先にお会計を済ませます」と言って、お会計を済ませたら、ほどなくして、先ほどのお兄さんが修理を終えて自転車を持ってきてくれました。ブレーキゴムは新品!気になっていた自転車のカゴも、お兄さんが「曲がっている」と言っていた箇所も含めてバッチリキレイに治ってました。
そして「修理していたらタイヤの空気が少なかったから入れておいたよ。」と。実はそれ、自分でも気にはなっていて、明日、自分で空気を入れようと思っていたところだったので「わぁ、ありがとうございます〜!!!」と、来た時とはまったく違う、めちゃ嬉しい気分で自転車を受け取りました。
そして、なおしてもらったばかりの自転車のカゴに大量にかった野菜たちが入ったエコバッグを乗せて、走り出しました。タイヤの空気もパンパンで、ブレーキもきゅっとしまるこの感じ!!!ウキウキしながら自転車をほんの数メートル走らせた先の交差点で止まって、信号待ちをしている時に
なにかとっても不思議な感覚が襲ってきて。
それは一瞬、かつての自分が自分の中を通り抜けるような、そんな感覚で。
その「かつての自分」というのは、なんというか…「この現実を現実だと思って生きていた自分」のことで。
世界で起きていること、社会で起きていること、仕事で起きていること、身近な人間関係。そんなひとつひとつに感情を揺さぶられて、揺れ動いて。そのすべてが自分ではどうしようもない。外側の世界がすべて現実で、自分はこの世界の中に放り込まれた一粒。みたいな感覚というか。
いやこれ、大多数の人の普通の感覚だとも思うんですが。
「いつから、この「かつての自分」ではない自分になったんだろう…?」と信号が変わって歩き出す人を見ながら、不思議な感覚に陥ってました。
その「かつての自分」は、まったく別世界の自分のように感じたんです。
ほんの数秒のことでしたが。
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帰宅して、買ったものを冷蔵庫にいれて、猫たちのごはんを用意することにしました。ここ1ヶ月ぐらい、うちの猫たちには遺伝子組み換え飼料や抗生物質を不使用の鶏の胸肉を蒸し焼きして細かく割いて、あげています。
そういえばこれを書いていて思い出したのですが、うちの猫は昔からチキンが好きでガツガツ食べるけれど、直後に必ず吐いていて。どうもチキンがうまく消化できない感じ?って思っていたのですが、今、鶏の胸肉を毎日食べてもまったく吐かなくなりました。不思議。
と。話は戻りますが、
数日前に、そのいつもの胸肉が売切れていて、代わりに手羽先を買って同じように焼いてあげたのですが、猫たちはアブラが乗っているせいか?イマイチだったらしく(苦笑)、あまり食べなかったので、これは自分が食べることにしよう。と思い(3月に深い部分の手放しをしたので、これまでお肉を食べなかったのですが、今は鶏肉は再び解禁にしています)猫たちの胸肉を焼いた後のフライパンで、今日買ってきた山椒の実とターメリックと豆乳ヨーグルトをまぶして、野菜と一緒に蒸し焼きをつくることにしました。
(トップ画像)
そうして、一緒に焼く野菜たちを切っている時、
ふわっと一気にいろいろ降りてきました。
それはまず「いつから、この「かつての自分」ではない自分になったんだろう…?」の答えのようなものでした。
私は小さい頃から好き嫌いがなくて、なんでも食べれる子供でした。
それは裏を返せば、食事にそんなに興味がなかったのだと思います。
それは大人になってからでもそうで、友人たちと外でご飯を食べる時にも、
お店選びは食事自体はなんでもよくて、友人たちとおしゃべりして楽しい時間が過ごせたらいい。だからゆっくりできる、とか、落ち着く店というのが最優先でした。
それはデートでも同じで「何食べたい?」と聞かれるのが一番苦痛でした。
結婚する前まで、一人暮らしは1年ちょっとしか経験していなくて、それまでは実家住まいでした。料理をするようになったのは結婚してから。
結婚していた頃は夫の食事の好みに合わせて料理を作っていました。
自分は好き嫌いもないし何でも食べれるから。
でも実際、自分が本当に好きな食物はなんなのか?どんな味付けが好きなのかさえ、わかっていなかったし、それを知ろうとも思っていませんでした。
その後、夫と別れて、一人暮らしに戻ってからもしばらく、料理は多少するけれど、近くのコンビニで買って済ませてしまうことも圧倒的に多くて、相変わらず食事に興味がなくて。
それからベジタリアンをはじめたのですが、それは思考で食物を選んでいただけで、自分の食事の好き嫌いにまで意識は向いていなかったのです。
それが変化したのは40代になってから。
当時付き合っていた人が美味しいものにこだわりがあって、その影響もあったとは思いますが、自分の作った料理をインスタでアップしはじめたのがきっかけでした。
それまでは、「自分のために」「時間をかけて」「料理をする」という発想がまるでなかったのですが、料理の写真をアップすることが楽しくなってからは、毎日、料理をすることにハマりました。
そう、この頃から、私は変わりはじめたんだなぁ。と。
自分が食べたい味はこれだった。とか、この野菜が大好き。とか、そんなふうに自分が今日食べたいものについて、はじめてちゃんと自分に聞いてあげることができるようになって。
それまで食事に興味がなかっただけではなくて「自分は本当は何が好きなのか」に興味を持ってあげていなかった自分に気がつきました。
そして自分のために料理をすることって=「自分に時間をかけてあげる」ことなのですよね。
「時間は愛だった」
そんな言葉が浮かんで。
ああ、そういえば、私は「時間」を欲していたかもしれない。
と連鎖的に思い返しました。
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小学校1年生の頃から母が働きはじめ、母はいつも忙しそうでした。
家に帰ってもしばらくは留守番で、一人で過ごすことも多くて、私は忙しそうな母を前に、今日こんなことがあったよ。とか、そういう子供が親に報告する他愛のない会話をだんだんとしなくなっていって、なんだか自分の話で時間をとったら申し訳ないっていうような、そんな気持ちがいつからか自分の中にできていた気がしました。
その影響は大人になってからもずっとあって、自分のことを喋るのが苦手だったり、それで相手に時間をとらせることに妙に申し訳ない気になったり。だから仕事の話はいくらでもできるけれど、自分の話はなかなかできない。
本当につい数年前までは、そんなでした。
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6年ほど前までつきあっていた人は、かれこれ11年ほど付き合った人だったのですが、別れるきっかけになったのは、彼が指輪をプレゼントしてくれたことでした。
その時、はじめて指輪をもらったのに、全然嬉しくなかった自分に自分でびっくりして、ほどなく別れたのでした。
その人は年上で、そのうえ付き合いが長くなればあるあるなんですが、私が話したいことの半分くらいは「知っている」という感じで、ちゃんと聞いてくれないような気がしていて。私は指輪よりも多分、私の話をちゃんと聞いてくれるその「時間」が欲しかったのだと思いました。
私にとって「時間」は、=愛だった。
母にもっと話を聞いて欲しかったのも
彼にもっと話を聞いて欲しかったのも
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もしかしたら、
3次元に意識の投影の結果として物質化した「モノ」よりも
4次元の意識の中で紡がれる「時間」のほうが
私にとっては価値があるって無意識に感じていたのかもしれません。
実際、「時間」は、より「愛」の次元に近い場所にある。
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自分のために「時間」をかけて料理を作るようになって、
それを食べるたびに、私は自分の中に愛が満ちていくのを感じました。
多分、それまでは、
自分の話を自分でちゃんと聞いてあげる時間を持てていなかったから
イコール自分で自分を愛せていなかったんだなぁ。と。
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今日のサイクルショップのお兄さん、はじめの「面倒くせ〜〜」は、私が私に言っていたことだったのでしょう。
自転車を取りに行って1時間の間にお値段以上の修理をしてくれて、その時間以上の愛を受け取ったことが、まるでこれまでの、この記事に書いた自分自身を走馬灯のように見たような体験だったのかも。
だから、あの時、不思議な感覚がきたのかもしれない。
” それは一瞬、かつての自分が自分の中を通り抜けるような、そんな感覚 ”
先日、瞑想で
自分の望みよりも仕事や会社をずっと優先してきた過去の自分を許して、それでよかったし、それでいい。って思ったのだけれど。
多分、すべてはパラドックス。
自分を大切にすることは他人を大切にすることと同じ意味だっていうこと。
自分を大切にすることができたら、それは誰かのためになって、
誰かを大切にすることができたら、それは自分のためにもなる。
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何かをはがしたりくっつけたり。
分解して、分離させて、また組み立てて。
結局はずっとそんなことをしている。
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まだたまに自分のことを伝えるその「時間」を
相手にとってもらうことに、抵抗が現れる時があるけれど。
今日、この気づきがあって、少し解けて手放せて。
こうしてずっと、変化し続けていくのだろうと思います。
そしてこの過程、この「時間」はやっぱり
私にとって愛おしいものなんだと、思います。
最後の方は謎に浮かんできた言葉を羅列して出しちゃいましたが。
眠くなったので、うまく締められずですが、このままおしまい。
またね。
おやすみなさ〜い。
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