見出し画像

「あなたは何故あなたを赦さないのか」 〜その1 映画『鹿の国』を観て

こんばんわ、Kaloです。

今日は、ここ数日の出来事と心的体験の記録です。

書いていたら長くなりそうだったので、
記事をその1とその2に分けることにしました。


ーー
先日、noteで仲良くさせていただいているぼたんさんに、『鹿の国』という映画を教えていただいて、観て来ました。

諏訪大社の古くから伝わる四季の祭礼を追ったドキュメンタリーです。

はるか昔、大地が引き裂かれることで誕生した巨大なくぼ地、諏訪盆地。
ここでは古来、鹿を贄とする祭礼が行われてきた。
それを伝えてきたのは全国に1万社ある諏訪神社の総本社、諏訪大社。

この地域の人たちにとって、鹿とはどんな存在なのか?

答えを求めて、600年前に途絶えた謎の「御室神事」を再現する。
それは凍てつく冬、3ヵ月間にわたって行われていたという。

半地下の穴蔵に籠って、鹿の贄を食し、豊穣を願う芸能を奉納していたのだ。わずかな史料を手掛かりに、神事を司っていた生き神・大祝(おおほうり)、神の使いとされた少年たちの存在と、正体を明らかにする。
時空を超えてよみがえったのは、穀物と動物の命を重ねる、
他に類を見ないいのちへの眼差し。

春が巡り来ると、神前に75頭の鹿が捧げられた。
今でも猟師は、鹿の肉を捧げに諏訪大社にやって来る。
そこで手にする一枚の札――、
仕留めた鹿を贄とし、それを人が食すことで鹿が生きる

太古の昔から諏訪の地を支配してきた自然信仰「ミシャグジ」、
そして神と仏たち。
それらが盆地の中で重なり混じりあうことで形作られた独特の世界が、
今もある。

映画「鹿の国」公式サイトより


東京ではポレポレ東中野という映画館で上映していて、
私は初めて行った映画館なのですが。
ネットで時間は調べてはいたものの、上映チケットが前売りされていることも知らず、予定が空いていた2月6日にふらっと観に行くことにしました。

上映開始10分前くらいに着けばいいかな?と思っていたのですが、予定より早い電車に乗れたのと、意外と道にも迷わなくて、30分前には着きました。受付に行くと「あと残り4席です」と言われ、そこで初めて全席指定だということ、予約ができることを知りました。
そして5分後には満席で完売。まさに滑り込みセーフ。

なんだか「呼ばれたな」感がありました。

それにしても、この映画、連日、満員御礼だそうで
こんなにも多くの人が諏訪大社の儀礼について興味があることにも
ちょっとびっくりしました。

私、前にも書いたかも?ですが、実は神社にはあんまり興味がなくて。
というか….。ほとんど、まったく興味がない。のです。
なので、自分が何故、この映画を観ようと思ったのかも、よくわからず。(笑

ただ、以前、2022年だったかな?諏訪へ友人と万治の石仏に会いに行ったことがあって。石仏は諏訪大社下社春宮の奥にあったので、なんとなく、諏訪という土地に親近感のようなものはあったのですが。



そしてこの記事は、最初、この映画について、だけ、を書くつもりでした。

それは見終わった後に、なんともいえない「違和感」があったからでした。

そう、ここ最近でも書いているように「違和感」は私の中では流せなくて。多分私が向き合うべきことなので、言葉にして書くことでそれがなんなのか、その奥にある自分の何かを見ることができるような気がしていたので。


ーー
その「違和感」が湧いたのは、映画の紹介にも書かれている「鹿の生贄」についてです。今は行われていませんが、昔、諏訪大社では、75頭の鹿の生首を生贄として神前に納められ、春の儀礼が行われていたそうです。

まず、です。鹿を、75頭??? で、生首ですよ?!

なぜ75頭だったのかということには、この映画は触れていなくて。

そして映画の中では、現在も鹿肉を献上している猟師さんが出ていらして、お話を聞いているのですが、昔の言い伝え?では、放たれたもの(=鹿のことらしいです)は荒ぶるなんとかで(すみません、うるおぼえですが)それを捕らえて肉を食べることによってともに成仏となす。みたいに言われていたらしいのです。

”仕留めた鹿を贄とし、それを人が食すことで鹿が生きる”

ひらたく言えば、「鹿の生命をいただきますが、食べた私の体と一体となり、鹿は私とともに成仏ができますよ。」みたいなことらしいのです。

それが、生贄や猟は残酷である。みたいな風潮ができたので、今は諏訪大社が猟師さんたちのために「鹿食免」というお札を出していて(これを出しているのは日本全国で諏訪大社だけだそうです)このお札をもらっていれば
「神様に赦されている」ということで安心して猟ができる。
というようなお話をしていました。

んーーーーーーーーーっ…。

私としてはもう、このあたりがザワザワポイントだらけで。
鹿は人が食べてあげることで成仏できるって?
なんと都合の良い人間のエゴよ。と思っちゃったんですよね。

映画の中では、鹿を殺すシーンが3回も出てくるし(見れなくて目を覆った)、これを平気で見れるって、人間ってなんなんだろうな?って。
ちょっと怒りが湧くレベルでした。(せめて罠を仕掛けるんじゃなくて
1発で確実に仕留めて欲しいんですけど。と思いました。)

そして、なぜ猪でも熊でもなく、鹿なんだろう?って思ったんですが、
鹿の角は数ヶ月で成長して春頃に生え変わるというので死と再生を象徴する動物ともされ、また神の使いともされているから、なのですね。

でもそう思ったら、人が鹿の生命をいただくというのは、
自分の中に神を宿したい。神のエネルギーを体の中にとりこみたい。
ということであって、「食べることで成仏させてあげるよ」っていうのは
欺瞞でであり、正当化では?と思ったのと、
もしこんなことがアリなんだったら、昨今で言われるアドレナクロム(あえて詳しくは書きませんが)と、やっていること、同じじゃないの?悪魔崇拝と神崇拝の儀式、何が違うの?人間の子供はダメで鹿はOKとかないでしょ?全部ダメでしょ。というところまでいって、「怒り」で思考がくるくるしちゃいました。


ーー
と。すみません、ここで書いておくと映画が悪いのでは、当然ないです。
むしろ、いいドキュメンタリー映画でした。
映像も美しいです。

映画自体は「ミシャグジ」という諏訪という土地に古くからある「自然信仰」をテーマに扱っていて、鹿の話だけではなく植物や石に宿る精霊、そうした見えない存在、神、が、諏訪盆地の中心にある諏訪湖を渡り、行き来する。ということや、四季の祭礼、神道と仏教の垣根を超えた信仰のあり方や、昔行われていた神使(おこう)さまとされた少年が半地下の場所に入れられ、そこで行われていたであろう儀式の再現などを扱っています。

映画のあと、(知らなかったのですが偶然にも)映画監督と映画にも出演されていたスワニミズムという諏訪のアニミズム(自然信仰)の研究をされている方のトークショーもあって。

諏訪にはさまざまな信仰、歴史を語る人が多い。時代によって信仰のあり方も価値観も変化していくので、その時代とともに変化をして来た、たくさんのレイヤーのように重なった信仰が今もある。
ということを話をされていて。
「レイヤー」という言葉がやけに印象に残りました。

ーー
それと、私はこの映画でちょっと不思議な感覚になりました。

映画の冒頭では美しい鹿の群れが走るシーンがあって、途中にも森の中の美しい野生の鹿たちが出て来ます。
中でも、昔から長らく生きているであろうと思われるような、特別な「何か」を纏っているような鹿が、こちら(カメラ)をじっと見つめるシーンがあって。
そのシーンで、私はその美しい鹿とエネルギーが繋がるような、細胞のひとつひとつがスクリーン画面のその鹿と混じっていくような。

そんな経験をしました。




この映画を見終わった後も
先に書いた「違和感」はぐるぐると頭の中を駆け巡っていました。

そして、これは私がずっと抱えている「人間であることの罪悪感」と「怒り」であるということもわかっていました。


ーー
先日、飲み会をした時に、最近は食事について、少し制限を緩めた。という話をしていたのです。

それは、「私の意識がこの世界を創造しているのであれば、3次元にある何物にも自分が傷つけられるということは、本来あり得ない。ということに気がついたから。」という話をしていて。

その時に「肉は?」と聞かれて、「肉は違うレイヤーなの」と答えていました。(ここで「レイヤー」と言っていた(笑))

そう、肉については、グルテンや砂糖や添加物といった、「身体によくないものだから…」という認識で、食べていないわけではなく、
今の畜産のあり方について、動物虐待だと感じている。
生命を生命として扱っていないその状況に対して、怒りを感じるから食べていないのでした。

この怒り。
人間の傲慢さ、強欲さみたいなもの。
そして自然や動物に対しての罪悪感。

映画で感じた「違和感」は、この怒りの感情からきているのです。


ーー
でも確か、昔noteにも書いて、自分のこの怒りと罪悪感に気がついて、手放したような気がしたのだけれど…と、探した記事がこちらで。

2年前の記事です。

これら2年前の記事を今になって読んでいて、猫たちの生命への信頼は少しはできるようになって、過度に心配することは、確かになくなったのですが。

今回、映画を観てぶり返すように湧いて来た「罪悪感」と「怒り」を感じている自分や、
飲み会で「違うレイヤー」とか言っちゃっている自分を観てみると、
根本的な「人間であることの罪悪感」とか「人間への怒り」は、
全然、まったく手放せていない。って感じです。

根強いなぁ。


そしてこの日の夜、不思議な体験をしました。

いつもよりもちょっと早めに眠くなってベッドに入ったんです。
そうしてしばらくしたら、めまいがして。
なんだか寝ているのにクラクラする、部屋が回っているのです。
気持ち悪い。なんか今日へんなもの食べたっけ?と一瞬思ったんですが
気にするのはやめよう。とりあえず、寝よう。寝たらおさまるかも。
と思い、寝ようとしたのですが、めまいで気持ち悪くて寝付けない。

それで、なぜか、ベッドに対して斜めに寝るようにしてみました。
なぜその時、そう思ったのかはおぼえていませんが、アタマを西、足を東に合わせるようにしたら、なぜかめまいがおさまった。
本当は北枕の方が良さそうと思いましたが、とりあえず、おさまったので
それで寝ました。

そうしたら夢で、ちょうどお腹あたりに湖の波のように光が広がるような
光景が見えました。そして身体の中の何かが入れ替わったような。
新しくなったような感覚。

身体から少し離れたところには黒い長方形の立方体があって。
それがなんだったのかはわかりませんが、手を伸ばして触ってみようとしても手が届かない位置にありました。

ーー
そして朝起きた時には気分が良く、目覚めも良かった気がします。


その日は実家に行くことになっていました。



(つづく)




So beautiful world
by kalo

いいなと思ったら応援しよう!

Kalo
サポートいつもありがとうございます。みんな大好き❤️