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続・フラクタルな宇宙〜トーラスとマトリョーシカ構造と


こんばんわ、Kaloです。

noteのトップにこちらの記事をずっと貼っていたのですが、

このミクロとマクロのフラクタルというのは、私の中でずっと考えているテーマなのだと思います。そしてここ最近、このフラクタルな宇宙についてまた頭の中でくるくると回っていまして、ただ、なかなか表現するのが難しいので悩んだのですが、この記事の続編として、とりあえず描いてみることにしました。描くことでまた新しい何かが発見できるかもしれないことも期待して。


身体はトーラス構造

最初に、上の記事で、

一般的に、消化器官は「身体の外」と言われています。私たちの消化器官は「身体の中」の細胞たちがきちんと理解して利用できるように、食物を翻訳(分解)して、情報(分子)を選んで送り込むという、隔てた2つの世界を繋ぐブラックホールのような、あるいはこの世とあの世を繋ぐトンネルのような、そんな役割をしています。

と書いたのですが、私たちの身体は、口から肛門まで消化器官が通っているというトーラスの形をしていますよね。つまり私たちの「身体の中」というのは、食物が運ばれて吸収される先、消化器官の内側を指しています。私はこの「身体の中」は、膜で覆われて閉ざされた全く別のひとつの宇宙だと思っていて、その中ではさまざまな細胞が生命体として生活している世界なのだと思っているのです。そしてその生活の様子は詳しく知ることはできませんが、彼らのもとには私が食べた食物の情報(分解された分子や原子)や、私が感じた感情の情報(心地良さやストレスなど)が届いていて、それをもとに生命活動(エネルギー生産)をしています。時間もとても速いスピードで進んでいます。ミクロになるほど時間は速いのですよね。それぞれの細胞によって寿命は違いますが、身体の中の細胞は約1年で全部が入れ替わっていて、細胞レベルで言えば私たちは1年前とは全く別人だと言われます。

細胞ひとつひとつは独立した生命活動をしていて、役割も違います。そしてそれぞれみんなが寿命を持ち、生命を全うしている。

そして、この中のどれかひとつの細胞だけが「私」なのではなくて、この「身体の中の宇宙」そのものが、この「3次元での私」なのですよね。

そして宇宙はフラクタルだと考えると、この「3次元での私」の身体も、この3次元世界全体の中の細胞のひとつである。ってことになりますよね。つまり同じような構造になっているのだと思うのです。

イメージでいうと、タイトルにも書きましたが、トーラスがマトリョーシカみたいになっている感じです。

私が今観ているこの3次元世界。これは、もっともっと大きなトーラスの内側の世界であって、「3次元での私」の身体は、その中に住んでいる細胞のひとつとして存在している。とします。

物理学者のリサ・ランドールさんが「宇宙の果てには膜がある」と本に書いていて、私もその本を読んだのですが(すみません本棚の中から探すのが大変なので(笑))昨年Yahooで「私たちの生きる世界は「ブレーン」で閉じ込められている?」というタイトルでその本のことが記事になっていたので、一部を紹介します。(今、検索したらその記事は残っていませんでしたが、その記事の抜粋をメモしていたので、そちらの転載です)

「ブレーン」というのは、膜のようなものだ。僕らが生きている世界は、その「ブレーン」の内側に閉じ込められている、と考える。「ブレーン」はたくさんあり、それらは5次元以上の高次元空間(バルク)に存在するが、他の「ブレーン」の存在を(普通のやり方では)僕らは知ることが出来ない。

リサ・ランドールはこのモデルを、バスルームに喩えて説明している。「ブレーン」をシャワーカーテン、「僕らが生きている世界」を水滴、「5次元以上の高次元空間(バルク)」をバスルーム全体だ、と考えると分かりやすい。僕ら(水滴)は、シャワーカーテン(ブレーン)の上は自由に移動できるが、バスルーム(バルク)に飛び出していくことは出来ない。

この理論でいくと、この3次元世界は膜で覆われて、外側には高次の世界が存在していることになる。つまり、この世界はやっぱり私の「身体の中」と相似した世界なのかな?と。

そして「私」を基点で観てみると、私の中にも独立した宇宙(「身体の中の宇宙」があり、外にも独立した宇宙(「3次元での私」)がある。

そして、「身体の中の宇宙」が消化管から情報を得ているように、「3次元の私の宇宙」も高次の世界の消化管のような道を通って私たちに情報を降ろしているのですよね。でもその高次の情報を降ろしているのは誰?と言ったら、やっぱり「高次の私」なんですよね?

ということは、今観ているこの3次元世界の全部、時間も包括した全ては、まるごと高次の私からみたら、「私」であり、今目の前で観ている世界、生きているこの世界全部が私なのだと。



「現象」も繋がっている

そしてもうひとつ、最近感じているのは「現象」についてなのですが、この「現象」についてもフラクタルなのであるとすると、「身体の中の宇宙」で起きていることは「3次元の私の宇宙」でも起きている。逆も然り。で、お互いに同じ「現象」が起きているのではないか?つまりは相互で影響しあっているという気がしているのです。そしてその「現象」は、どちらも高次の私の情報が元になって起きているいるわけです。高次の情報ってなに?というと、いわゆる”3次元の目”では見えない情報ですよね。4次元以上にあたる、こころ、思考や感情などです。

これまでの「3次元の私の宇宙」では、思考の影響力は強くて、思考は常に二元論でジャッジメントをしたがります。それは常に分離のある情報なので感情を煽り、戦いや競走が繰り返される。という現象世界を創り出していました。そしてそれは「身体の中の宇宙」でも同じ情報を受け取っているので、同じ現象世界が創られ、本来は必要のないコルチゾールが過剰になっていたのだと思うのです。こうした身体の中が常に戦っている状態、それがストレスという状況です。この状況が慢性化して免疫機能と呼ばれる戦うためのホルモンや細胞がどんどん疲弊していき、さまざまな病気、不調、アレルギーなどが現象として引き起こされていました。


ちなみに、リズ・ブルボーという方の自分を愛して!という本があるのですが、ご存知でしょうか?この著者は、身体の中で起きている不調の原因はこころが影響しているということを研究して書いているのですが、この本は辞書のようになっていて、身体に起こる病気や不調の原因となるこころや思考、感情などの種類が症状別に書かれています。

そしてこの本のタイトルのように「自分を愛する」という、5次元の意識に上がると、そこは「愛」の世界になります。愛の世界は無条件に全てを受け入れて愛する世界なのです。つまり非二元論であり、ジャッジメントも戦いもない世界なのです。この5次元の存在に気がついて、その視点の「高次の私」から「3次元の私の宇宙」全体を観ることができるようになると、「3次元の私の宇宙」、つまりこの世界はまるごと全部「私」である。と自動的に認識できるようになります。私の世界に登場している友達も家族も隣の人も上司も同僚も動物も植物も鉱物も、ネットやテレビで見る政治家も外国人も歌手も俳優も、本もニュースも情報も、なにもかもすべて全部セットパックで「私」である。と。

そうすると、そこには分裂がないので競走も戦いもなくなります。全ては「私」であり「愛すべき存在」でしかないのです。すると当然「身体の中の宇宙」でも同じ情報を受け取って現象化するので、身体の中では戦いがなくなって、これまで抱えていた必要のないストレスがなくなり、調和が戻ってきます。全体でひとつの生命ということになるので、病気や不調も改善し、なくなっていきますよね。

逆に言えば、「身体の中の世界」が整えば、外の世界「3次元の私の宇宙」にもそれは影響して、起きてくる現象も変わればそれを捉える印象も変化してきます。


そして「3次元の私の宇宙」で起きている現象(出来事)も「身体の中の宇宙」で起きている現象(出来事)も、ただ起きていてるだけ。全ては絶対的なバランスの取れている状態であり、どんな現象も中立で、意味がない。ということが理解できます。

4次元で起きている思考や感情は波となってこの「3次元の私の宇宙」の外側の膜に当たり、跳ね返って身体に反響が伝わってくる。と、いうのが私たちが外側の出来事に反応しているしくみのような気がします。同じ様に「身体の中の世界」の膜でもそれは反響しています。

そうして自分の思考や感情の波の音を外側に反響させて聴いている。というのがすべての生命体の生命活動であり、全ての出来事が、まるで膜の内側で反響している「音楽」のようだと感じるのです。


と、ここまで書いてきて、これって、なんというか...わかりづらいですよね。自分でも思考で理解しようとするとできないコトを話している、という感じなので、書いていて、頭から湯気が出そうなんです(笑)。

あ。もしかしたら理解の助けになるかもしれないので、昨年読んだ音の神秘という本の中の一節を最後に転載しておきます。(余計に意味がわからなくなりそうな気配もありますが...(苦笑)。)

(※ペルシャの詩人ハーフィズが話した『東洋の伝説』について)     伝説では、神が自分の姿に似せて粘土の像を作り、魂にその中へ入るように頼みます。
ところが、魂の本質は自由に飛びまわり、収容しようとするどんな力にも制約、制限されないものなので牢獄に入るのを拒みます。魂は少しもこの牢獄に入りたがりません。
そこで神は、天使たちに音楽を奏でるよう頼みます。
と、どうでしょう、天使たちが演奏するや、魂は恍惚となりました。
そしてその恍惚のままに、音楽をより鮮明にするために体内に入っていったのです。
そしてペルシャの詩人ハーフィズはこう語ったとされるのです。「歌を聴いてすぐ、魂が体に入ったと言うが、本当は魂そのものが歌なのだ」と。

美しい伝説です。そしてさらに美しいのはその神秘です。この伝説の解釈から、私たちは2つの大切な法則を知ります。1つは、自由こそ魂の本質であり、魂にとって生のすべての悲劇はこの自由の欠如であるということ。この伝説が明らかにしてくれるもう一つの神秘は、粘土ないし物質で作られた体に魂が入った唯一の理由は、生命の音楽を体験し、この音楽をより鮮明に聞くためだということです。
さて、以上の2つの素晴らしい神秘をまとめると、神秘中の神秘である第3の神秘が心に浮かんできます。それは、この生命 ー 外的な生命の事ですが ー をより明瞭にしようとすると、私たち自身の無限の部分が、制限された現世的なものになるということです。

宇宙の音楽は、私たちが音楽と呼んでいる小さな像の背景にあたるものです。音楽に感じたり、惹かれたりするのは、私たちの奥深くに音楽が存在していることを示しています。全宇宙の営みの背後に存在している音楽は、最高の生の目標であるばかりか、生命そのものなのです。



今日は、東京は一日中雨でした。降り続く雨音を聴きながら、ゆっくりとした時間を過ごすことができました。

ではでは、みなさまも、よい週末をお過ごしください。

素敵な夢を。おやすみなさい。








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Kalo
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