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フラワーオブライフ〜私の宇宙観1

こんにちわ。karo.です。

さてさて、フラワーオブライフって、ご存知でしょうか?
古くからある神聖幾何学ですが、生命の樹を現していたり、宇宙の法則を表していたりする図形ですよね。

このフラワーオブライフの意味や解釈については多くの書籍が出ていますし、スピリチュアル系のサイトなどでも取り上げられていますので、詳しい方も多いかと思います。実は私自身は、概要的なことだけ、なんとなく知っているかな?というレベルなので、まったく詳しいわけではありません。
ですが、私がこのフラワーオブライフの図形を見た時に、これはまさに宇宙を表している。と思いました。今日はそんなお話です。

私とは何か?

そもそも自分というのは、なんでしょう?

ちょうど先日、友人と「死んだらどうなるか?」という死生観の話をしていて、彼は「死んだら無になる。なにもなくなる。」と言うので、「じゃあ、この身体が自分だと思うということ?」と聞いたら「そうだよ、この身体が自分だよ。」と、なんでそんな当たり前のことを聞くの?という顔で返されました。

確かに、自分ってなんだろう?なんてことを、疑問に思ったことがない。考えたことないよ。という人がほとんどなのかもしれません。もしくは輪廻転生という考え方を受け入れている人は、よく胸を差して「ここに(自分が)居ます」という人もいます。自分の身体の中に魂があって、それが自分。ということですよね。私も以前はそう思っていました。

私の外に私がいる?

そして、確か2012年頃からだったと思います。ヌーソロジーという高次元の新しい思想を発信されている半田広宣さんという方のツイッターをたまたまお見かけして、気になって、ほとんど意味がわからないながら、ずっと読んでいました。何年かして書籍も2冊ほど読んてみたのですが、数学的な用語と解説が多くて、当時の私ではむずかしすぎて、途中挫折していたのですが...。その中に確か「自分とは、自分が観ている世界が自分である」的なことが書かれている部分がありました。身体自体が自分なのではなく、目の前に見えている世界、自分が認識している世界こそが自分である。というようなことだったと思うのですが、これが、わからないながらもなんとなく理解できるような...と自分の中でずっと考えていた頃、瞑想についての記事でも書きましたが、2016年から瞑想をはじめ、当時いくつか瞑想講座や瞑想会に参加しました。その中のある瞑想会の時に、インドのスワミジが「自分(の魂)は身体の中に入っていると思っている人が多いと思いますが、本当は外にあります。」と頭の上の方を差して言われたのでした。

自分が観ている世界が自分である。
自分の外に魂がある。

うーーーーん...???(笑)。この2つの言葉が私の中に入ってきたものの、当時は実感として掴めなかったので、頭の中では漠然と、もやもやしていました。

マンダラ...!

私は30代の頃の一時期、空海と密教の世界にちょっとだけハマって、曼陀羅展に行ったり、本を買ったりしていました。ただし曼陀羅については、本を読んでも全然意味が解らなくて、金剛界?胎蔵界?...なんじゃそりゃ?という感じだったのですが(笑)、曼陀羅図は観ているだけで惹かれる何かがありました。何か宇宙的な意味があるのだろうと感じはするものの、意味はわからない。だから惹かれていたのだと思います。そもそも曼陀羅図は思考を超えた世界なので、思考で読み解くものではないのでしょうね。

そして2年程前に、本棚の整理をしていて当時購入した曼陀羅図がたくさん載った本をみつけて、パラパラと観ていた時に「あーーーーっ!」と思いました。描かれている仏様がみんな円の中にいるのです。

わ、そうか「自分の外に魂がある」というのは、こういうことか!とやっと直感的に入ってきました。
描かれている円は魂の光であって、その中に仏様の身体が包まれているのですね。

これは私の次元論でも描きましたが、高次元の目に見えない意識が本来の自分であるとすると、その中に3次元物質である身体が内包されているということなのですよね。この仕組みは簡単に言うと3次元の中に2次元が内包されていることと同じだと思ったのです。

でももうひとつの自分が観ている世界が自分である。という方の実感にはたどり着けていませんでした。これはちょっと別の話なのですよね。そんな時に小さい頃のあることを思い出しました。

世界はひとつではない?!

ここで私が小学生の頃に話が遡るのですが、私の母は私が小学校に入ってすぐに働きはじめました。母の勤めている会社は自宅と小学校の間にあって、いつも学校からの帰り道に母の仕事場に寄って、母の仕事が終わるまでそこで遊びながら待って、一緒に帰っていました。確か小学3年生だったある日、いつものように母の会社で母が仕事を終えるのを待っている時に、ふと、我にかえった?ような感覚で母を見て「母と私はまったく違う世界に生きている別の人間だ。」という絶対的な真理?みたいなものが降りてきたのです。これ、ちょっと大袈裟に聞こえますが(笑)、でもその時の感覚は今でも覚えているのです。驚きとともにある意味、悟りを得た瞬間のような、身体の奥から納得できるような、そんな感覚が小学生の私にドーーンときたのでした。

一般的な解釈で考えたら「私が小学校でその日1日過ごしていた時に、母はまったく別の場所でまったく別の体験をしていた。」という、ただそれだけのことに気がついただけ。なのでしょう。多分それまでの私は母と一体化していて、意識はまだ母の胎内にいたのかもしれません。そしてこの時に初めてその意識が母から離れて独立した。という、子供の成長過程の一コマなのだと思います。ですが、それまで私の中では「世界はひとつ」だったのです。自分の見ている世界がすべてだと思っていたので、まさに小学生の私には、地球は丸かった!ぐらいのパラダイムシフト、驚きがあったのです。

そして、よく考えてみると、実はここに「自分が見ている世界がすべて」であるのと同時に「自分が見ている世界がすべてではない」というパラドックスがあるのにお気づきでしょうか?そう、逆説的な事実がここに2つ在るのです。

これ、理解しにくいと思うので、もちょっと、しつこく書いてみます。

私の中に宇宙がある

私たちは「この大きくて広大な1つの宇宙の中に、存在している、小さな一つの生命」とかって思いがちですよね。というか、みんなそう思って生きていると思うのです。実はこの認識がパラドックスなのです。どういうことかというと、「私の次元論」のマガジンでも書きましたが、私たちは多次元的な存在です。私たちの観ているこの世界は、実は高次元の影が落ちて映っているにすぎないのです。これをひとりひとりで言えば、4次元に降りてきているココロの存在が3次元現実の世界に反射して現象化しているのです。そして私たちは3次元のこの場所で、みんなと同じ場所にいるように見えても、実は全く違う世界に存在しているのです。家族であっても恋人であってもひとりひとりが違う4次元の内的視点を持ち、その内的視点が映し出しているフィルム映画のような3次元現実を観ていて、それぞれの人が違う映画を上映しているのです。また量子論的なことで言うと、観察してはじめて現象化(物質化)するということでもあり、逆に自分が認識していないものは、この世界には存在していないということなのです。

つまり、私が存在していなければこの宇宙は存在しない。ということです。

ということは、先にこの宇宙があって、その中に私たち一人ひとりが生まれてきたのではなく、私たちが生まれて、この宇宙を認識したときにはじめて、この宇宙が生まれたということであり...。

そう宇宙は私たちひとりひとりの中に存在している」のです。

この宇宙は外にあるのではなく、私たちの中にある。これまでの私たちの認識がそもそも逆転しているということなのです。

これは「フラクタルな宇宙〜身体の中から知る、宇宙はひとつの生命ということ」の記事で描いた、すべてはフラクタルである。ということとも関連します。

そしてこれこそが、最初に書いた「自分が観ている世界が自分である。」ということだったと気がついたのです。それを直感的に捉えることができるのが、フラワーオブライフの図形です。

ここでやっとフラワーオブライフにたどり着きました(笑)が、長くなったので、2つにわけますね。

つづきはフラワーオブライフ〜私の宇宙観2で描きます。



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Kalo
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