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Accept 〜私を認める。ということ(後編)


こんばんわ、Karo.です。


今日はこちらの記事の続きです。


昨日、この記事で

この「私が信じているこのこと」自体は、いったい何なのか?というと、それは「これが今の私を表す周波数であり、今の私という色」であり、「私が私という存在を確認するための道具のようなもの」なのだと思いました。

つまり、私は私を観ることはできないので、この「私が信じていること」を外に向かって表現する。それがどこかに反射して返ってくる。その返ってきた「響き」を私が感じる。そうすることで、はじめて私が私自身の存在を知ったり感じたりする。のだと。

と書きましたが

この記事も「私が信じていること」を外に向かって表現したことのひとつなのですよね。そこにコメントをいただいて、それを読んでいたら、たくさんの響きが、私の中で聞こえました。

本当にどうもありがとうございます。


そして

それにしても、コロナって本当にすごい。ちょっとしつこいけど(笑)。

って書きましたが、しつこいなんて書いてごめんなさい(笑)。


もはやコロナは本当に「愛」の塊にしか思えなくなってきました。

世界中の人になんらかの「気づき」をもたらそうとしてくれている、言葉のないメッセージ(だからスゴイ)のような気がします。

私たちは、今、この時代に来て、地球でのメインイベントを楽しんでいるような気さえしてきました。ワクチンを推進しようとする国や大きな組織に対して、疑問を呈したり、反対の声をあげることができるようになったこと。これまではもっと同調圧力が強くて、さまざまなことに反対の声すらあげることができずに洗脳をされていたことを考えても、どんどん枠がはずれていっている気がして、この3次元がみるみる変化していますよね。

本当にすごいな。と思います。

そして、これまで枠があったからこそ、この自由を感じられるのだと思うので、枠があったことに対しても感謝なのだなぁ...と改めて思います。



そして、昨日の記事で私は、ワクチンをすでに接種した友人をまるごと受け入れることにしたことを書きました。

これは自分に嘘をついたのでもなく、相手の考えを受け入れたのでもなく、実は私は私の世界にひとつの「許可」を出したんだな。と気がつきました。

これについてもう少し掘り下げて描きたいと思います。


もしかしたらこれ、承認欲求かもしれない

私は、そもそもこれまでのワクチンにも薬にも懐疑的だし、今回のワクチンは特にいろいろな意味でコワイよね〜...思っています(笑)。だからワクチン反対の署名もしますし、自分はワクチンを打たないよ。と公言もします。

自分のスタンスを公言すること、自分の知っている知識や情報を話したり、意見を交換すること自体はむしろとっても大切なことだと思うのです。そうしてさらにお互いが深まっていきますよね。

でも、難しいのは、身近な人に自分の意見に同意してもらって、なおかつ行動を変えてほしいと「思ってしまう」と、その時点で「正しさ」みたいなモノを主張しようとしてしまうのだと思います。

特に身近な人が受け入れてくれないようだな、と感じたら、自分の信じている「正しさの背景」を固めるために、さらに多くの情報を集めて「正しさを証明」しようとしてしまう...。

でも、本来は「正しさ」を伝えたいのではないはずなのですよね。「正しさ」なんてなんの意味もないのです。「やっぱり私が言ったことが正しかったでしょ。」なんてことを言いたい訳ではないのですから。

だから、今回のワクチンの件は、そのバランスが難しいのだと思います。

でも、そもそも「私の意見に同意して行動を変えてほしい。」というのは、傲慢ですよね。相手がどう考えて、どう行動するかも、誰もがみんな自由意志があって誰もがみんな自分の信じる世界を生きているのです。

そして、みんなが「自分で考える」という機会を与えられている。

もし相手を100%信頼していたら、何が起きたとしても、心配などする必要もなくて。そもそも心配するってことさえも傲慢ですよね。


つまり「私の意見に同意してほしい。」これってやっぱり、承認欲求なのではないかな?と思いました。


意識の反転

人は誰でも差こそあれ、承認欲求があると思います。誰かに理解を示されたり、同意してもらったり共感されたりすると、とても安心しますし、やっぱっりうれしいですしね。

でも承認欲求って、実際は目の前の人や誰かに自分を反射をしていて、ワクチンとか起きている現象とか関係なく、自分自身に「自分を認めてもらいたいよーーー。」と言っているココロの声でもあると思うのです。

そしてまた、目の前の相手を100%信頼できていないということは、やっぱり自分自身を100%信頼できていない。というのと同義です。

「信頼されていない。」と感じる。だから「認めてほしい。」


でも、これに気がついたら「あ、そうか!まるごと全部信頼していても大丈夫なんだった。」って思えた(思い出した)のですよね。

単純単細胞で、ごめんなさい〜(笑)

自分の中で気が付けていなかったけれど、でも存在していた「認めてほしい」という声。それが消えていって、反対に誰もかれも、とりあえず「認めたい!」と思うようになったのです。


意識の反転が起きたのですよね。


先日、そんなことを考えていたときのメモです。

”自分と違う意見もまるごと受けとめて「認めていく」と、

私はそのたびに、どんどん透明な存在になっていく、

そうしたら、ただ、認めるだけで良いのだとわかってくる。


認めればよくて、認められる必要はないのだと。”



以前の記事でも、こんなことを書いていました。

私であるスープは透明な存在であって、そこには分離はないのですよね。だってスープ(空間全体)ですから!
私自身には、もはや表も裏も、闇も光もないということなのです。
それどころか私は実体すらない、ただの空間なのです。

そう自分以外を認めていくことは「自分が観ている世界が自分である。」という全惑星意識になっていくことなんだと、改めて思いました。


本当に私、何度も何度も、同じところをくるくる廻っています(笑)。

こうして、らせん状に少しづつ気づきが深まっていくのかもしれません〜。


ーーーー

最後に、この記事の前編で

先日、6月15日にも、2つのボウルからそれぞれ、メッセージを受け取ったのですが、

と書きましたが、ちなみにクリスタルボウルからのもう一つのメッセージも書いておこうと思います。


こんなメッセージでした。

魂のやどり木を見つけなさい。
それは見つかったらわかる。それだとわかる。
(それは物質ではないそうです)
見つけたら安心で平和で自由になる。
いつでも其処に帰ることができる。
自由なこの人生の旅ができる。

私の魂のやどり木は、まだ見つかっていませーん(笑)。



最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。


今夜も素敵な夢を。おやすみなさい。





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