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自然に「望み」は湧いてくる。その「望み」を止めなければ、世界は望み通りに流れていく。

こんにちわ、Kaloです。

昨夜は急遽、八十八夜のインスタライブをしました。

八十八夜。
立春から八十八夜目が、今年は5月1日、昨夜だったのですが、
この1日からちょうど次の新月の8日までの間にたねを蒔く。
つまり「願い」を放つと、秋の収穫の時期にその「願い」が叶いやすい。という…。そんなことを昔から日本人は知っていた。

と、さとうみつろうさんが昨日YouTubeで話していました(笑)。
(すみません、にわか知識です(笑))


ということで、今日は秋に収穫するぞー!という「願い」について….。
ではなくて。
もっともっと小さなところ、日々の身近な話で、「望み」について。です。


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今朝、うちの猫にごはんをあげていて。

新しい、ささみとマグロの入った缶を開けてあげた。
時間をかけてむしゃむしゃ食べていたけれど、しばらくすると
「まだ足りません」という顔でこちらを見る。
よく見ると汁だく部分は食べていて、残りの具は半分くらい残っている。

はいはい。と、また汁だく部分をあげる。

そんなことを2〜3回繰り返した後、
「違うのも食べたいんです。あのペーストのやつ」って顔で
こちらをガン見している。
しばらく他のことをしていて無視していると、わざわざ近くまで来て
「にゃぁ〜〜〜〜〜っ!(だからペースト食べたいのよー)」と言いにくる。

まぁ、これ、毎朝繰り返されている白猫とのセッション(笑)なんですが。

このセッション(笑)を終えて、ゆっくりコーヒーを飲みながら、
ふと「望み」について思ったことがあって。

これ、もしかして前にもどこかの記事で書いたかもしれないのですが、
うちの猫たちを見ていると、とってもわかりやすくて。

たとえば、白猫の方は本当に自分の「今の望み」について素直なんです。
昨夜のライブの最中も、もちろん空気なんてまったく読まないですから、
遠くで「にゃ〜〜〜」と叫んでるし(笑)、先のごはんにしても、望みのものが出てくるまでじっとお皿の前で待ちながらこちらをガン見してくる。

一方、うちの虎猫のほうは、
最近は少し変わって、少しは自己主張が出るようになりましたが、数年前までは、「何を望んでいるのかわからない」っていうタイプで。
何かは望んでいて小さい声で私にむかって「にゃあ」って言うんですが、
ごはん?って聞いて出してあげると「んーーー、違う。」と猫草の前に行く。
猫草ですか?と彼は歯が少ないので、私がとって食べさせてあげようとすると一口食べてみるふりをして「いや〜。違うかも」と、また別の場所へ。
そうして部屋で伸びてみたりしているので、遊びたいのか?と思うと、これまた違う。で、結局は、ごはんを食べに行く。みたいなことになる。

ごはんも、白猫みたいに「これじゃなきゃ嫌」みたいなことはなくて、
そこに在るもので、今一番これがしっくりくるかな?みたいなものは一応選んで食べているのですが、たまに何も入っていない時でも、おなかすいた、とか、ごはんが欲しいとかもまったく言わず。で、あ!忘れてたね、ごめんごめん。とごはんを入れてあげると走って食べにくる。

これ、どっちがいいとか悪いとかじゃなく、
どちらも結果的に「望みは叶っている」んですよね。

まぁ、白猫のほうが常に「望み」を強く放つタイプで
虎猫は「あるがままを受け入れ」ながら結果的には望みを叶える
みたいな、そんなタイプですかね。


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でも、自分の「望み」ってそう考えてみると、
「望んだ」時点で、どちらにしても常に叶っているし
「望み」は常に自然に泉のように湧いてきている。と思います。



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ずいぶん前に、小さい頃からアトピーを持っている友人と話していて
アトピーがひどくなった時に「水をアルカリイオン水に変えたら(症状が)良くなったんだよね!」と話していて。
当時私はホリスティック栄養学の自然療法の学校に行っていたので、盛り上がっていろいろと話していて、そうそう、身体に入れるものを変えることで治ることっていっぱいあるんだよね。って話していたんです。

でもその時に彼女は最終的に
「でもそんなことにこだわっていたら何も食べられなくなる」って
悲しそうに言ったのですよね。


その言葉に違和感を感じていて。

東京にいて、溢れるほどいろいろなものがあって
その中から自分が食べたいものを選ぶことはできるよね。
って思ったんですよね。


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私はグルテンフリーと添加物フリーをはじめて今年で10年目になるのですが
グルテンフリーをはじめた当時はパンが大ブームで、
東京においしいパン屋さんが目白押しの時代だったんです。

それまでは、
毎朝全粒粉のオーガニック小麦でパンケーキを焼いていたし、
夜ご飯は毎日のようにパスタを作って食べていました。
近所にあったお気に入りのこだわりパン屋さんに足しげく通っていたし
DEAN&DELUCAのマフィンもかなり中毒性があって、よく食べていました。

見渡す限り小麦一色な世界の中で
カイロプラクティックの先生にグルテンフリーを勧められ。
ジョコヴィッチのグルテンフリーの本にも感銘を受け、副腎疲労の勉強もして、あきらかに自分に小麦は合っていないってわかっていたけれど
最初は「無理無理」ってカイロの先生に言いながらも、結局グルテンフリーを始めて体調が一変し、それまであることさえ気がついてもいなかったアタマの中の霧が、ほんの3日ほどで「晴れた!」と感じたので、それからずっと続けているのですが。

本当、最初はお醤油ひとつ、味噌ひとつとっても全部小麦が入っていて
当然グルテンフリーの食品を扱う店もない。
Amazonでひとつひとつ小麦の入っていないものを探しては買い、
それも当時はAmazonでさえもグルテンフリーの商品の種類は少なくて。

モノは溢れていて何でも売っているような東京の中でも、
食べれるものが何もない。
グルテンと添加物の入っていないモノを探すのは難しくて
ポツンとひとりだけ離れ小島にきてしまったみたいな気分。

その頃、仕事先のクライアントの社長と話をしていて
当然仕事の話なので、全く関係ないのですけれど、その社長が「大きなスーパーで品揃えもものすごくたくさんあるんだけれど買えるもの(買いたいもの)が何一つない。っていう感じなんだよなぁ〜」とライバル社のことをスーパーに例えて揶揄していて(笑)。

ああ、私、今実生活でそれですわ〜。と(笑)
先の友人が言った通り「何も食べれなくなる」という状態でした。
なるほど、アトピーを抱えていた友人はまさにこんな状況、こんな気分で、きっと四面楚歌を長年感じていて、うちのめされていたのかもしれない。と思いました。


でもですね。
それでもグルテンフリーや添加物フリーをやめる気持ちには
全くならなかったんです。
そのくらい自分の身体や思考が変化したのを体感していたので。

だから周囲の友人にも飲み屋で2時間ぐらい話しっぱなしでグルテンフリーや栄養についての講義したり(迷惑〜(笑))。
当時付き合っていた彼氏とはよく一緒にお気に入りの老舗ケーキ屋さんのスィーツを食べていたのですが、グルテンフリーを始めたことを話して、彼はスィーツが好きだったんですが理解してくれて、一緒にいる時はスィーツからフルーツに変えたんです。
そして、近所の人や何かの集まりでも「小麦を食べられないので」と、いただいたお菓子をいちいち断り、当時は仕事していましたから撮影のロケ弁当にもめちゃ口出しして、添加物の入っていない美味しい手作りのお弁当にしてもらったりしていました。
とにかく周囲に話していたんですよね。

こうして書いてみると、かなり主張強めの白猫みたいですね、私(笑)。

でもそうして自分の「望み」にまっすぐにいて。
それは小麦を食べたら身体に良くない。添加物を摂ったらダメ。
みたいな恐れの思考ではなくて、ただ単純に、はじめてみたら、
体感として「食べない方が心地良くいられる」と心身ともに感じていたし、
その「心地よさ」を感じてしまったら、もう元には戻りたくない。
という「望み」、みんなにもマジでオススメだから知って欲しいという「望み」だったんですよね。


そんなことをしているうちに
「表参道にグルテンフリーの店があってグルテンフリーパスタが美味しいよ」と友人が教えてくれたり。
いつのまにか近所の足しげく通っていたパン屋さんが潰れてなくなって、
その近所にビオセボンというオーガニックスーパーができたり。
彼氏が都内にある、私が知らなかったオーガニックスーパーに
クルマで連れて行ってくれるようになったり。
学生時代につきあっていた昔からの友人に何年ぶりかに会ったら
彼が青山ファーマーズマーケットをはじめたと教えてくれたり。

最初は小麦一色に見えていた私の世界だった。
そこから離島にいるような生活を経たけれど、
時間をかけて少しづつ「望む世界」に自然に流れるように
変化して行ったんです。
グルテンフリーの世界が、カモがネギ背負って大量に歩いてきた。
みたいに(笑)。

今ではグルテンフリーを知っている人も増えたし、
グルテンフリーのものはAmazonでも普通にたくさんあるし、
近所の店でも手に入ります。


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今朝コーヒーを飲みながら、
あらためてここ10年のこの「私の世界の変わりよう」を感じて、
突然この記事を書きたくなったのですよね。



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今ある世界は変わらない。それはわたしにはどうすることもできない。
だからその世界に合わせて生きよう。と、外側の価値観、外側にある常識、すでにある世界に合わせて、自分の望みを諦めてしまったら
先に書いた友人が言った
「でもそんなことにこだわっていたら何も食べられなくなる」
と言う悲しい言葉になると思うんです。


でも本当は世界は自分が創っていて。
そして世界はとっても柔らかく変化する
実態のないもの。
だから「望む」ことで世界は変わるし
「望まなければ世界は変わらない」。


そして「望み」に忠実であること。
それは頑なになる。ということではなくて、
自分から湧いてきている「望み」に気がついて
それをただただ、「大切にしてあげること」「意識をむけてあげること」
だと思うのです。

人も世界も意識を向けた方向にいつも流れて
変化していく。

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日々の、今の、小さな「望み」に耳を傾けて、
ひとつひとつ、毎日毎日、その「望み」を今できる範囲の中で
「聞いてあげる」「叶えてあげる」を重ねていくことで
自分の中の「心地よさ」が日々重なって、「望みが叶う」が重なって、それがつながって、
そのつながった時間が増えるから、
それがやがて世界に波のように伝わっていく。

「望み」を諦めなくてもいいし、
世界を変えるには何か大きな「願い」を掲げなくては…と
思わなくてもよくて。

こうして小さな「望み」を感じてあげて、
それを叶えてあげていたら世界は望み通りに変化していくんだよなぁ。と。
あらためてそんなことを思った朝でした。(もう夕方だけど(笑))


ではではまたー。


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Kalo
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