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「心配」を手放すこと。

こんにちわ、karo.です。

今日は、タイトルの通り「心配」をテーマに描いていこうと思うのですが、今年のこの世界的なウイルスの状況については、本当に漠然とした「不安」を抱えている方が多いのではないでしょうか。こうした「不安」は気づかない間に身体内に沈殿していきますよね。

人は見えないものや、わからないこと、自分が理解不能な存在や状況を恐れます。自分ではアンコントロールなことに対して「恐れ」や「不安」を抱くので、その漠然とした「恐れ」や「不安」を、なんとかコントロールしようとする気持ちが「心配」となるのかとな?と思いました。自分の中に生まれた「恐れ」や「不安」を顕在意識下まで引っ張り出して「心配」というカタチで可視化して置いておけば、コントロールできそうな気がするのかもしれませんね。

「心配」って結構、落とし穴なのです。

たとえば、仕事うまくできるかなぁ...。明日の試験大丈夫かなぁ...。という時、これは、うまく出来るかどうか自分に自信がなくて、ちょっと感じている「不安」。そしてそれが「心配」となって顕在化してきたら、もう少し勉強しておこう。とか早めに寝よう。など何か対応しようという行動につながります。このパターンは、とてもわかりやすいですよね。

でも、友人を心配するとか、家族を心配するとか、仕事の状況を心配するとか、お金を心配するとか...。自分以外の人や外の現象を「心配する」時って、ありますよね。これはちょっとトラップになっていて、自分以外の外の状況を心配している時もまた、実は自分の中の「恐れ」や「不安」を外に転嫁して映し出しているだけなのです。

たとえば、仕事相手や家族、子供などに対して、(自分が勝手に「相手に能力がない」と決めつけて心配し→きっと失敗するだろう→先回りしてフォローしてあげるのが優しさだ。(これ、何様なのか...?って感じなのですが(笑))みたいに思っていることって、ありませんか?
または「相手は身体が弱い」と心配し→きっとこのままでは良くならない(と決めつけ)→私が助けてあげなければ。とか...。
これらはなかなか気が付きにくい落とし穴だと思いますが、本当は「相手に能力がない」のではなくて「自分に能力がない」と思っている(思い込んでいる)自分自身への自信のなさや不安、恐れを、相手に「心配」というカタチで投影しているだけ。なのです。

これ、どんな場合も、例外なく。です。

「心配」は重たい波動。

そもそも「心配」の原材料は「不安」や「恐れ」なので、波動としてはとても低くて重いのです。自分の中で出来上がった「心配」という玉は、同じ低い波動に同調して、どんどん不安を取り込み、雪だるま式に膨らみます。
たとえば、ウイルスが心配だな...と思い始めたらどんどん情報を集めはじますよね。恐れを動機にして情報を集めると、同じ波動の情報がどんどん目に入ってきます。そして波動の低い情報に煽られてしまい、ますます「心配」が募るのですよね。
こうして膨らんだ心配玉が手に負えなくなると、なんとかしようと焦って、極端な行動に出たり、人を攻撃したり、八つ当たりしたりします。
または先に書いたように自分以外の誰かや何かに転嫁して、誰かを「心配」することで、心配玉を自分から手離して、自分を落ち着かせようとします。

心配は、愛情ではない。

ちなみに、私の母は80代で健在なのですが、彼女は昔から心配性な性格でした。そして私は小さい頃からいつも母に「心配される」たびに気が重くなっていました。まさに重たい波動を感じていたのですね

子供を心配するのは当たり前で、それが親の愛情。というような価値観ってちょっと在ると思うのです。
でも、私の中ではずっと、それは「愛情ではない」と感じていました。子供の私からしたら、じゃあ心配させないように「しっかりしよう」「親に信頼してもらおう」と、がんばるわけです。でも何をどうがんばっても、やっぱり心配される訳で、完全に不毛なことに、ある日気がつくのです。どこまでいってもキリがない。
なぜなら、母の心配は「信頼できない自分」という不安を私に投影しているだけで、実際は「自分の抱えている心配(不安や恐れ)」を娘に投影して、すり替えているだけで、私がどうあろうとまったく関係がないのです。
ですが、親に心配をされることで子供は「いつも信頼されていない」と感じ、「自分は信頼に足らない存在」と思ってしまうのです。

これ、ある意味、呪いですよね。(笑)

そして心配している本人は悪気がないですから、かえって始末に追えない...とも言います。意地悪な書き方をすれば、むしろ「心配して(あげて)いる私は善い人」ぐらいな気持ちなのですから、タチが悪い(笑)。

あ、ここで「心配」しないでください。母との仲は良好です(笑)

気づいたら、手放せる。

余談ですが、こうしたことは親子関係や夫婦や兄弟間、友人関係のように、近い関係であるほど、相手を自己同一化してしまっている場合が多いので、このトラップに陥りやすく、ハマってしまっていることに気づくことが難しいと思います。そして連鎖しやすいかもしれない...と思います。
この連鎖というのは、「心配する人」→「心配される人」が共依存関係になるので、なかなか抜けることができなくなるということです。そしてこの関係自体、健全ではないので、精神的支配の構図を生む。と思っています。特に支配する側である「心配する人」は「心配される人」がそのうちに居心地が悪くなって、この依存関係から離れようとするとパニックになります。DVと同じですね。そしてまた「心配される人」がその依存関係を続けていると、押しつけられて蓄積された「不安」を、今度は別の相手を「心配する」ことで支配しようとするので、連鎖となるのです。

自分では気がつかないうちに「心配して(あげて)いる私は善い人」になっていることって多い気がしますね。
私は「心配される人」を長い間、拒否してきましたが、気がついたら今度は「心配する人」になっていたと思います。

でもこのループは、これに気がつくことができれば、断ち切れます。

心配はどんな場合も、愛情ではないのです。自分の不安の投影です。本来の愛情は、相手を信頼して任せること、全てを受け入れることだと思います。

不安や恐れの存在を認める。

この「心配」の原材料である、不安や恐れが強く出てきている時は、「高次と繋がっている本来の自分」が影に隠れてしまっています。
彼ら(不安、恐れ)は、私が「本来の完璧な存在である自分」を思い出して、信頼して丸ごと受け入れる。ということに、断固反対!を表明している存在であり、いわゆる「自我の抵抗」なのです。
もし、私がやすやすと自分をまるごと受け入れてしまったなら、不安、恐れはここに存在できなくなってしまうから、必死な訳です。

では、この不安や恐れを手放して、自分を丸ごと信頼できるようになるには、どうしたらいいか?というと、パラドックス的ですが、この不安や恐れを味方につけるというか、観て、気づいてあげるのです。

彼らは、今、自分をどのくらい信頼できているのか?を知らせるためのバロメーターのような存在なのです。なので、存在に気がついてあげることで、手放せるようになるのです。ただ、しっかりと握りしめていた手を開くだけ。手放すのはとても簡単です。

特に、いま「不安」にのみこまれていて「心配」だらけだよ。となった時は一大チャンスです。繰り返し繰り返し頭の中をめぐっている「心配」に、気がついたら「今、自分を信頼できていないのだな。」ということなのです。そんな時は思考をストップして深呼吸してーーー......。

寝ちゃう!!!(笑)。

もうあれこれ思考で考えずに、とにかく無条件に自分を信頼してしまうのです。それが一番早道だと、思いました。

ぎゅっと握り締めているその「心配」を手放したら、自然に自分を信頼できるのです。ただ単純に無条件に自分を信頼したら、外で起きているコトすべてが信頼できる。のです。全ては内と外のパラドックスですからね。


気づいても気づいても、不安や恐れは出てくるのでしょう。
でも「あ、まだいたのか〜。ご苦労様!」と気軽にポイポイ手放していけばよいのだな。と思います。

それでも、自分の奥深くに根付いている「恐れ」は、なかなかその存在に気づけなかったりして、時間がかかるかもしれません。でも、手放せます。

ひとつひとつですよね。

自分をまるごと信頼することは、宇宙をまるごと信頼すること。
すべては起こるべくして起こっている。ということ。

大丈夫、大丈夫。大丈夫です。



...と、長くなってしまいましたね(汗)。最後まで読んでいただいてありがとうございます。

ではでは、今夜もGood Vibesで。おやすみなさい。




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