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ゲーテの「色彩論」からはじまって、くるっとまわって「音」について再考して、すでに「ハーモニー」の世界に在ると気がついた。
こんばんわ、Kaloです。
実は前回の記事を書く前に、途中まで書いていた記事がありまして。
それは「細胞の震え」についてだったのですが、でも途中で頓挫して、ふと深夜に色について書き始めたら、コメント欄で引き寄せましたよ。
ゲーテが我が家にやって来ましたー!(テルさんありがとう〜)(笑)。
「ゲーテの色彩論」というのを教えてもらって、さっそくググったら、
なんと「色彩論」自体がウィキに載っておりました。
そしてなんだか、めーちゃめちゃワクワクしました。
色彩は光の行為である。行為であり、受苦である。(『色彩論』まえがき)
ヒ カ リ の 行 為 っ ! ! !
(このワード、なぜか、めちゃめちゃアガルーーー!!!www)
ということで今日はゲーテの「色彩論」のウィキをご紹介しながら
私の感嘆符がちょいちょい入るというスタイルで(笑)記事にしてみます。
(後半は音について気づきがおきた話です)
色彩論においては、色彩は光の「行為」として捉えられている。
すなわち生けるものなのである。
ゲーテは語りかける自然ということを言っているが、語りかけるとは、語るものと、語りかけられるものがあってこそ成り立つものだと言える。
色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである。
ヤバい。もうすでに、この文章で、
皆さんも、めちゃめちゃアガルでしょ?!(あれ?!私だけかな?笑)
音や香りなどの感覚と同様、色彩には、ただ客観的な自然を探求しようとする姿勢では捉えられないものがある。
色彩は数量的、客観的に分析される光の中に最初から含まれているとすると、客観的に光を分析してゆけば色彩のことが分かるということになる。
ゲーテはこれに、外界の光を分析するだけでは理解できない、眼の働きによる色彩の現象を持ち出して反論する。
灰色の像を黒地の上に置くと、白地の上の同じ像よりも明るく見える。
この像を単独で、客観的に分析するだけでは明るさの違いは説明できない。これには眼の作用が関わってくるからである。
対立するものが呼び求め合うというこの運動は、ゲーテが自然のうちに見いだした分極性の働きである。
眼はひとつの色彩の状態にとどまらず、明るさと暗さという両極にあるものを呼び求め合うことによって新たなる色彩を生み出す。
このようにゲーテは、静止した対象としてではなく、生成するものとしての色彩を見いだすのである。
ゲーテにとって
生きるとは活発に運動し、新たなるものを創造することである。
人は光子で、光の集合体だとすると、
その光が運動して新たなるものを創造する。
それが私たち一人一人の「生命」なのですよね。(深々と納得)
つまりは、昨日の記事に書いたように、
色はその人が創り出した色であり、その人自身を現している!!!
(私、ゲーテのイタコじゃない???(苦笑))
ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする。くもった媒質を通して光を見ると黄色が、闇を見ると青色が生じるからである。
プリズムの実験によって、ゲーテはこの黄色と青を両極とする色彩論を展開する。白い紙の上に黒い細長い紙片をおき、プリズムを通してそれを眺めると、上から順に青、紫、赤、橙、黄という色が並んで見える。プリズムと眼の角度を調整し、色を重ねて行くとこの並びは最終的に青、赤、黄となる。ゲーテはこれを色の三原色とした。そしてこの三原色を中心としながらダイナミックな動きを内包する色彩環を提唱する。
ゲーテの色彩環は、
赤を頂点としながら黄と青を両端とする三角形に、緑を下の頂点としながら橙と紫を両端とする逆向きの三角形が重ね合わされたものである。赤と黄の間に橙、赤と青の間に紫が配置される。この六角形では赤に対しては緑、黄に対しては紫、青に対しては橙が反対の所に位置している。
出た!ここで六角形きましたよ〜。だから何?なんですがwww
(一応、下に関連記事貼っておきます(笑))
ウィキに載っていた「色彩環」の図に六芒星を重ねてみました。
![](https://assets.st-note.com/img/1708853129144-LsgCJ5mRH1.jpg)
橙と紫を両端とする逆向きの三角形が重ね合わされたもの。色彩環。
この色彩環において対になっている色を、我々の目が実際に対として捉えていることを、ゲーテは残像の実験によって確かめる。
白紙の上に色を付けた紙片を置いてそれをじっと見つめる。しばらくしてから色付きの紙片を取り去ると、白紙の上に紙片の色とは違う色の残像が浮かび上がる。その残像の色こそ対になっている色である。
即ち赤は緑、黄は紫、青は橙の残像を出現させるのである。
ここにも対立する色が呼び求め合う働き、分極性が見出される。
色彩は静止したものではなく、それ自身の内部に力を有して運動するものであり、動きもその色単独のものではなく、他の色と結びついた動きであるというこの考え方は色を有機的・生命的に捉えたものだと言える。
色彩現象の全体を包括する色彩環は、一と全、特殊と普遍の合一を示している神秘的な形である。
ニュートン的なスペクトルでは、色彩は色光の波長により赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の直線として分析され、円を描くなどということはない。
色彩環は数量化された自然ではなく、人間が感覚する自然を探求したゲーテの姿勢から見いだされたものだと言える。
ゲーテの色彩環は、活動しながら新たなる色彩を生み出す生きた自然の秩序を示したものである。
多種多様な色彩現象をその種々異なる段階に固定し、並列したまま眺めると全体性が生じる。この全体性は眼にとって調和そのものである。
恍惚…。
あ、すみません、読んでいて、ついうっとりしちゃって。
眼は単なる青にも黄にも満足せず、それ以外の色を求める。
黄と青は呼び求めあい、結合することによって第三の赤という高度なものを生み出すという。
赤はただ黄と青が混ざったというわけではなく、黄が橙を、青が紫を経て高みで合一したものである。
もはや色が人間に思えてきました。(笑)
あ。そういえば、古代マヤ文明では、トウモロコシから人間ができた。と言われていて、そのトウモロコシにも5色の色がついている。
ーーーー
そして以前、ディジュリドゥ奏者のアーティスト、GOMMAさんとお話しした時のことを思い出しました。
GOMMAさんが事故の後遺症の発作で意識を失っている時、
白い光のゾーンまで行くそうで。そこは光が溢れた、とても心地よい場所。
そしてだんだんとこちらに意識が戻ってくると、
少しづつ、見えてくる世界に「色」がつきはじめるのだそうです。
ーーーー
…と、ここまで書いていて、記事がまたも1日止まっていたのですが(笑)。
ーー
そうしたら昨日、また前回の記事のコメ欄に、
今度は、ぼたんさんがコメントをくださって。
(noteってほんと、コメント欄も宝の宝庫ですよね)
最近音や色について考えていたのですが、シュタイナー曰く「色彩は物質から解放されて漂うものである」と。
人の個性も本来は姿形でないものを同時に感じているんでしょうね。
テスラが光が黒というのは面白いですね!ゲーテの色彩論にも繋がる氣がします(マゼンダ、シアン、イエロー全部混ぜると黒になる)。
光があって初めて対象物があると思うと本当は黒というのはわかるような氣がします。
シュタイナーではアストラル界は色彩の世界🌈神界は音の世界だそう♫✨
ヌース的にも音は次元が高く、
視覚はそれぞれの個の域を出ないけど聴覚は個の領域を超えてみんなが同じ次元に出ることが出来るようなイメージです✨
クリスタルボウルサウンド🥣で深い瞑想ができるのもなんか納得です〜✨
意識と物質は同じもので何かと何かが触れ合う時に音が響く、明暗がぶつかるところに色が発生する。
人間には聴こえない音や色で宇宙は満ち満ちているのかもですね💫
もうこれ、まさにそうだなぁ〜...と納得してしまって。
先に書いたGOMMAさんが言っていた
「こちらへ戻ってくると色がつきはじめる。」ともリンクします。
ーー
今朝このコメントを読んだあとに、
うちの猫と床に転がってお日様を浴びながら、
しばし目を瞑ってぼーーーーっとしながら、考えていて。
突然、あーーーーー!と思ったんですが。
ゲーテが
「黄と青は呼び求めあい、結合することによって第三の赤という高度なものを生み出すという。」
「赤はただ黄と青が混ざったというわけではなく、黄が橙を、青が紫を経て高みで合一したものである。」
と、言っている、
この、対局の色が混じり合って「高みで合一」するって。
色だけではなく、音もそうなんだ!!!って気がついたんです。
(今さらジロー感。)
ーーーー
以前、こちらの記事で、
5つの音の組み合わせで人の身体の臓器も作れるし、
臓器自体も正常に修復できる。というサイマティクスという
音響療法を生み出されたマナーズ博士のことに触れているんですけれど。
![](https://assets.st-note.com/img/1709084069172-5BgrSxjrtn.png?width=1200)
やっぱり。
「組み合わさって意味を成す」なのですよ。
色にも、当然それぞれの周波数があって、
それが音の周波数とリンクするわけですから、
色が混じって高みで合一する=音が混じって高みで合一する。
ってことよね。
ーーーー
先日、うちのアルケミークリスタルボウルたちの周波数を
一つ一つ拾っていて。
それぞれがゆらぎがあって単一の周波数ではないし、
ボウルによってはいくつもの倍音が入っているのですが。
さらにいくつかを合わせて鳴らした時に周波数を測るとまさに、
全く違う周波数になっているのですよね。これまた不思議なのは聴こえている音と出てくる周波数が全然違うんです。
新しい周波数が生まれてる。
ーーーー
つい最近のさとうみつろうさんのYouTubeで
「どんな音痴な人でも3人集まって歌うと純正率の音でハーモニーをとれる。」という話をしていて。
「むしろ平均律の音を楽器なしでは出せない」のだそう。
つまりは、
人の声は共鳴し合うと自然と音が純正率のハーモニーになるのだな。
とわかったのですが。
これって人がそれぞれ持っている周波数でも同じ法則ですよね?
ちなみに。アルケミークリスタルボウルもそうで、
まずボウル自体に水晶と貴石が混じっていることで、
いくつかの自然鉱物の周波数がすでに混じっているわけです。
そのいくつかのボウルをさらに合わせて鳴らしていくことで、
全く違う、新しい周波数が生まれる。
そしてそこに、
鳴らしている奏者と聴く人の周波数が混じるのだと思うのです。
だから共同創造。
さらに言えば、
4次元成分の空間と時間がそこに混じりあって共振していく。
なんか…。感慨深い。
毎回、奇跡的な音が出ているのだわ...。とあらためて思ったのと、
多分、どの音(周波数)同士を混ぜたら、こうなる。という法則はあって、マナーズ博士はそれを解明されていたのだと思いますが、
結局、人が3人集まって純正率になる。ハーモニーができる。
共振してハーモニーとなっていくということ=水の浸透圧と同じ
作用が起きているということで。
それは自然の摂理である。と。
ということは、自然にしていても私たちは純正率の中にいる。
この美しい調和のとれた世界の中にすでに在るんだ。って思うんですよね。
この美しい調和のとれた世界の中に在って、
自分だけが不調和だって…ありえなくないですか?
みんな、共振していくし共振しているんですよ?!
目を瞑って、意識の波をその場所へとチューニングさせて感じてみれば
自分は消えてしまって、調和のとれた世界の中のハーモニーの一つになる。
私たちはハーモニーそのものの存在。
これが「ワンネス」と呼ばれる世界のことであり、
わたしたちは、やっぱり「すでにそこに在る」のだと。改めて。
と。
記事を寝かせていたせいか、
書いている途中で、自分の周波数の波の変化があちこち?で(笑)
私の視点が上下しながら、話がくるっと遠回りしているような感じで
謎に着地?しましたけれど。(すみませ〜ん
とりあえず、そんな感じ(どんな感じ???(笑))で。
トータルでイミフでも、何か欠片は落ちているかも。というテイで
球、投げておきます。
(みんな何か拾えるかな〜〜(笑
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
xxx.LoveLoveLove
関連記事
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そういえば昔、
音について書こうと思ってなんか違うことになっちゃったけど。な
記事もたまには貼っておこう。
全然関連していない?!けど、最近音とか言葉とかって、話題にしている人たちが増えたような気がしているので。
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![Kalo](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/90547188/profile_d991d1835f15691969ea59b49c94238e.jpg?width=600&crop=1:1,smart)