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知らないから怖いのではなく、知ろうとしないから自分を護れないのだ。

"名前も生い立ちも顔も同じ人間が、本当にこの世に存在しているのだ。"

どうやら「まるで夢のような」話があるらしい。
ドッペルゲンガーにでも遭遇してしまえば命を取られるだとか、この世には自分の姿と同じ人間が3人存在する等と有名な噂話がある。
私はそんなものには出会った事も無ければ身近で聞いた事もない。
更にはソウルメイトやツインレイ、トリプルレイまでも存在するそうだ。


感じ方、捉え方は十人十色といったように個体にも個性というものが備わっている。
例えば霊感にしても全く無いという事がなく、動力のもとは備わっているはずだと私は思う。
全ては意識にあり、夫々がどう扱うかで変化も起こりうるということ。
無論、得意不得意もある。
例えば共通認識でも全く同じ視え方や感じ方ではなく、視覚では生者と死者の区別がつかない者も居れば、黒い影として視える者、頭の中で投影されたり他にも様々で視た者しか知り得ないのだ。
聴覚、臭覚、味覚で感じる事もあるそう。


そして人間の身体は都合良くつくられている。
それが当然な事と一般的に認識されているのなら、五感に関しても火を見るより明らかだ。
古来から語られている能力は未だ不完全且つ未完全乍も、人類が絶滅しない限り失われる事は無いと言えるだろう。

エビデンスに拘り過ぎないのも多様性等、切に守りぬく所謂「個人厳守」のようなものだ。
自己満足と言われれば其れ迄だが、理解や認識の限界を超えれば必ず真理に辿り着く事が出来る。
そして限界の先にも限界があり、更に突き詰め続ける限り起源や知識の性質について考察する事で発見や求めているものを捉えることが出来る。
そしてまた新たな知識を得る事で学びに繋がり、其れ等を繰返し続ける。
物理だけが真実とは限らなく、この世には否定出来ないものが未知数にあると言える。
捉え方や表現も様々だが、魔法もあると確信しているからだ。

人間として生まれ、どう生きるかは夫々である。
然れども未開な生き物として可能性を試す価値は大いにあるはずだ。

また「愛」も目に見えるものではなく、形や大きさ、色も人夫々だ。
愛など語っていても個人の価値観の押しつけ捉えられてしまえば、単なるエゴに変換されてしまう事もある。

最悪の結果亀裂が生じてしまい、終いには取り返しの付かない事も起こりうる。


不意に考えが浮かんだ私は知る限りの沢山の愛をならべてみた。
捉えたものは、まるでジグソーパズルだった。
きっと其れを完成させる使命を与えられ、誰も完成させようとしない。
ピースにすら気付けないでいたりもする人も居るだろう。


示し合わせをしなくとも、思い遣りを以て接する事で皆が幸せを感じて生きていけるはずなのに。
例えば、世界中の人達が1人残らず1分間だけでも笑顔になったとすれば、根本を覆す程の何かが起こるかもしれないと思うと、希望は0ではないとも言えるのではないか。

考える事同様に意識も自由なのだ。
よって私は見えないものよりも疑うべきは、理不尽な事ばかり解決しない深刻な思想は何が毒なのか認識していないからではないかと頻りに意識させられるのである。

不慣れから結びつく恐怖や、本来恐れるべきものに鈍感になっていないか、自分自身の考え方を再確認する必要がある。

人は欲の強さ程小さくなるという事、そして自分が何に毒されているのかを知る事を忘れてはならない。

自分達が今欲しい物についても生きていく上でどの位必要か考え、欲や好奇心の恐怖を理解すべきだと私は思う。


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