「肇国」と「建国」の相剋/『國體の本義』・中村直勝・上田又次
はじめに
戦時中、「肇国の精神」「肇国の大精神」という言葉が頻繁に使われた。意味はよくわからないが、何か深い意味がありそうで凄そうな言葉である。それがどんな「精神」なのかは、ここでは問わない。
本稿で取り扱うのは、「肇国の精神」の「精神」ではなく、「肇国」の方である。
そもそも、「肇国(ちょうこく)」とは「国をはじめる(肇める)」の意である。言葉の古典的典拠は『書経』(『尚書』)の「文王肇国在西土」(文王国を肇むること西土に在り)であり、また『日本書紀』には第十代・崇神天皇の名の一つとして御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)の表記が見られる(なお、初代・神武天皇の名の一つにも「はつくにしらすすめらみこと」があるが、漢字表記が異なる)。明治天皇が渙発した『教育勅語』(明治23年)の冒頭は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」であり、戦前・戦中に好んで「肇国」が使われた由来はここにあると言ってよいであろう。
本稿で問うのは、「肇国」についての二つの疑問である。
一つ、「肇国」とはいつの何を指すのか。
一つ、「肇国」と「建国」は同じ意味なのか。
そもそも、「肇国」が何なのか明白な共通理解があるなら、そして「肇国」と「建国」が全く同じ意味なら、こんな問いは立てない。かつて、「肇国」と「建国」を違う意味で使いたがり、前者に特別な意味を込める論者がいたのだ。「肇国の大精神」という、「何か凄そうな(そして意味不明な)言葉」は、そのような特別な意味を背景に成り立ったのであろう。本稿は、その魔力の前提の一端を解き明かしていきたい。
1、肇国は何を指すのか
肇国が何を指すのか、文部省『國體の本義』(昭和12年)で明確に述べられている。
天照大神が天壌無窮の神勅(天照の子孫が君主となって永久に日本を治めるようにという神勅)を瓊瓊杵尊に授けて、日本に降臨させたときが、「肇国」の時であるという。『國體の本義』は文部省が国民の思想善導のために発行した冊子である。ここで現れている「肇国」は、政府が公認した見解であると言っても過言ではあるまい。民間の著作物でも、「肇国」を天照大神の神勅・天孫降臨に当てはめているものは多い(適当に用例を拾えば、「肇国の御神勅」(相葉忠男『肇国大和魂を四海に 国民読本』(日本精神講習所、昭和13)27頁など)。
一方で、神武天皇による事績(「東征」や初代天皇への即位)を「肇国」と呼ぶ事例も散見される。いくつか例を挙げよう。
「皇祖神武天皇国を肇め給ひしより」(『肇国の由来とオリムピックの概要』(紀元二千六百年帝都観光会、昭和13年)1頁)
「神武天皇肇国の御偉業については」(山田孝雄『肇国と建武中興との聖業』(白水社、昭和15年)11頁)
次のように論考や著書のタイトルで神武天皇に肇国の起点を置いていることが明示されているものも散見される。
山本信哉「神武天皇肇国の聖詔と御製」(歴史教育研究会『肇国精神の伝統』(四海書房、昭和15年)所収)
久留島武彦『神武天皇の御東征 : 肇国物語』(日向書房、昭和18年)
また、石川銀次郎『肇国の史蹟』(立命館出版部、昭和15年)は、神武天皇の史跡を扱う本であり、「肇国」=神武天皇の事績としていることは明らかなのだが、序文を寄せた魚住惣五郎は「もとより大日本帝国の基礎は歴史を超越した時代に定り、肇国の精神またここに窺はれるのであるが、この精神の実践と国家形態の完成に至つては、実に神武天皇の御事跡に拝せられるのである」(2頁)と述べており、著者と魚住とで微妙にずれがあって面白い。
このように、「肇国」は、天照大神による神勅発布や天孫降臨を指す場合と、神武天皇による事績を指す場合がある。また、前者を「肇国」と見る立場でも、神武天皇の事績を「肇国の精神の実践」として位置づけ、そこに連関を見出すことも可能であることが分かる。
2、「肇国」と「建国」の違い
周知の通り、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日を太陽暦に換算した2月11日は、現在の「建国記念の日」であり、戦前は「紀元節」という祝日であった。この日に国民行事として「建国祭」を挙行するのに尽力した永田秀次郎は、「建国の精神」という文章でこのような話を伝えている。建国祭と言う名前がよくないと主張する者がいた、と。その者の主張は、次のようなものであったという。
「建国」と「肇国」のニュアンスの違いを気にする者がいたのだ。この無名氏の意見(感想)では言葉足らずであり、よくわからない。ここでは、まず文科省『國體の本義』での「肇国」と「建国」の使い分けを確認し、続けて二人の学者による議論を見ることで、「肇国」と「建国」の違いがどう言語化されていたかを確認する。
2-1、『國體の本義』
何も考えずに『國體の本義』本文に全文検索を行うと、「肇国」は50回(目次等を除けば48回)、「建国」は3回使われていることがわかる。説明不要ながら、前者の方が圧倒的に多い。では、後者はどのように使われているのか。3回の内、1回は満州国の建国として登場するだけで、思想的意味はあまりなさそうだ。残り2回は、以下の文章にある。
「肇国の精神」がある日本とは違って、外国では革命によって「建国の精神」が中断するのだという。となると、唯一「建国の精神」が中断しないのは日本だけだ、と主張しているに等しいが、日本について「建国(の精神)」と記載することは断じてない。あくまで、「肇国(の精神)」である。このように「肇国」と「建国」を明白に使い分けているのであるが、その違いを明確に説明してくれはしない。
2-2 中村直勝
不親切な『國體の本義』とは違い、中世史学者の中村直勝は「肇国」と「建国」の違いを丁寧に説明してくれる。
彼は昭和13年・14年に立てつづけに出た講演録、その名も「日本肇国の大精神」で日本には「建国」がなく「肇国」あるのみであることを力説していた。さらに、時局的な講演以外だけでなく、本業の歴史書でもそれをより高い精度で力説している。
「建国」は人為的なものだが、「肇国」はそうではない。人が肇めるのでも、神が肇めるのですらなく、神の御心によって、自然に出来上がるものだという。そして、「建」には「倒」「壊」があり、「始」には「終」が、「初」には「末」があるが、「肇」には終わりがない。そして、「建国」の有無は王朝交代の有無と直結して論じられている。
このように、各所で繰り返され、通史の冒頭で「肇国」論を展開するほどであるから、中村の「肇国」は時局のために論じられたものではなく、彼の信念であったことが窺われる。人為によるものは人為によって倒されることを前提とする「建」への不信、そして神によって自然に「肇」められることへの絶対的な信頼がそこにはある。
2-3 上田又次
さらにもう一例として、西洋史学者で平泉澄の門弟でもある上田又次の議論も挙げよう。
中村の議論と似ているのは言うまでもない。これはアメリカ建国についての注釈であり、人為的に建国されたアメリカ、ウィリアム1世の征服により建国された英国(彼が賞賛するバークの祖国)と日本の違いに注意を促す意図が見られる。中村の場合は「建国」の参照対象が中国・朝鮮で、上田の場合はアメリカ・英国であるという違いはあれ、人為的「建国」がある国では人為的な王朝交代や革命が存在し得るという認識も相似している。
(余談ながら、上田は後に満洲国の建国大学の助教授に就任する。人為的に作られた満洲国が人為的に滅ぼされたことは言うまでもない)
おわりに
以上、「肇国」の時点は天照大神の神勅・天孫降臨の時と見なす議論と、神武天皇の事績と見なす議論があること、そして「肇国」に「建国」とは違う特殊の意味を込める論者がいることを見てきた。そのような論者は、「肇国」を神武天皇の事績と見なす立場はとらなかった。何となれば、神武天皇の「東征」を「肇国」と見なすならば、実質的に(人為的な)「建国」と同じになってしまうのである。
GHQの占領下で抹消された祝日「紀元節」は、昭和41年の祝日法改正で「復活」するが、その名称は「建国記念の日」となった。中村直勝(昭和51年没)はそれを如何なる気持ちで見たのだろうか。「紀元節の復活」には賛成しても、それに「建国」と冠することには忸怩たる思いがあっただろう。昭和20年に戦没した上田又次は「建国記念の日」制定を見ることはなかったが、皮肉にも、彼の思想的師である平泉澄はその論考「日本の建国について」で神武天皇による「建国」の意義を力説し、「建国記念の日」制定運動を応援していた。
平泉は「建国」の人為性を認めたうえで、「我等の先祖」による人為の意義深さを称揚した。彼は「建国」の人為性にも意義を見出すことができたのである(平泉は、中村のような自然発生的「肇国」を楽観視する立場とは対極的な歴史観を持っていたが、それはまた別の話である)。
本稿では「肇国」と「建国」の違いを説く論者として中村直勝と上田又次を取り上げたが、その人選が適切であったかどうかは分からない。「肇国」について、より社会的影響力や新規性のある言説をなした知識人がいるならば、そちらを取り上げるべきであるが、そのような厳密な調査は行っていない。その意味で、本稿は事例研究に過ぎないであろう。
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