道鏡を肯定する? 喜田貞吉『日本歴史物語』における「日本民族」観と皇位窺窬者の間接的肯定
はじめに
日本の歴史上、臣下の身でありながら、皇位を窺ったり、新皇を自称する不届き者が現れたのは周知の通りである。そのような「不届き者」は、系図を遡れば皇室の末裔であるとはいえ、天皇中心主義の歴史観からすれば、皇位簒奪者の存在はあってはならない「負の歴史」である。その「負の歴史」は、国家公式の歴史観が天皇中心主義であった戦前において、どのように語られたのか。その研究は汗牛充棟であろうが、他の人の真面目な研究はさておき、本稿では『日本歴史物語』という書物を紹介する。
『日本歴史物語』について
『日本歴史物語』は昭和3年から4年(西暦1928~29年)にかけて出版された児童向けの歴史書である。執筆陣には新進気鋭の若手から大家まで、錚々たる学者を揃えている。上巻(古代史)は喜田貞吉、中巻(中世史)は平泉澄、下巻(近世・近代史)は中村孝也が執筆しており、昭和天皇の天覧を受ける栄誉を浴してもいる。
喜田貞吉と皇位窺窬者
冒頭で述べた「不届き者」が出てくるのは、喜田貞吉執筆の上巻である。登場する「不届き者」は、仁賢天皇の歿後に天皇になろうとした平群真鳥、称徳天皇に信頼され皇位を窺った道鏡、反乱を起こして「新皇」を自称した平将門である。喜田は彼らを一括して、次のように説明している。少し長い引用になるが、面白いのでご容赦いただきたい。
当然のことながら、「不届き者」トリオは批判されてはいる。だが、彼ら「不届き者」の「負の歴史」の説明の中で、何故か日本の「国体の尊いところ」が称揚されるという不思議な記述がなされている。即ち、皇位を窺う「不届き者」はみな天皇の末裔であって、皇室の血を引かない者がそのような野望を持たなかったから、日本の国体は尊いという説明である。(「国体は尊さ」の認定基準それでええんか? と突っ込みたくなるのは私だけではあるまい)
無論、『日本歴史物語』が児童向けの読み物であり、読者たる児童に日本歴史への誇りを抱いてほしいという意図から、「負の歴史」の中に、日本の「国体」をポジティブに評価する論理を(致し方なく?)紛れ込ませている、という解釈も可能であろう。こじつけにせよ、皇位簒奪を目指す者が、天皇の末裔からしか出ていないことに「我が国体の尊」さを見出すという理論が出されているのは面白い現象である。さらに穿って考えると、皇位簒奪を目指す者が、天皇の末裔から出ることさえ「我が国体の尊」さであるという理屈を突き詰めれば、彼らの皇位簒奪も許されるのではないか?(なぜなら、彼らは「皇室に少しも因縁のないもの」ではなく、その皇位簒奪によって万世一系は損なわれないから)という疑念も湧いてくる。
一応、喜田は道鏡の説明で次のように述べている。
一応は皇室の末裔でも臣下に即位する資格はないと明言しているが、それでも「天皇の御位に即くなどといふ資格」がない人間に対しても皇室の末裔とそうでない者に差別を設けている以上、先の疑念は消えない。その疑念を深堀りすべく、もう少し上巻での喜田の議論を見てみよう。
喜田貞吉の「日本民族」観
喜田の上巻の叙述は(というか戦前の古代史叙述は基本的に)神話から始まるが、喜田はそこでこのような説明を行っている。曰く、日本列島に「前から住んでをつた人々は、皇室の御先祖のお供をしてこの国に来たものと、みんな一緒になつてしまつて、私共日本民族といふものが出来たのです」(8頁)。真面目そうな言葉で言えば、日本民族混血民族観を開陳しているのである。喜田は本書に「日本民族(上)」「日本民族(下)」の章を立てるほど、「日本民族」について詳しく論じている。
日本と日本人の始まりの説明を神話だけに頼らず、「日本民族」がいかに生まれたかの経緯から説いているのは、相対的にではあれ「科学的な」歴史叙述であると言える。だが、彼の混血民族観の説明は皇室にも及び、そこで神話と接合される。
天照大神の神勅を受けて降臨した天孫・瓊瓊杵尊の妃は「前から木花開耶姫と申して、前からこの国にをられた方でありました。そしてその間にお生れになりましたのが、彦火火出見尊で、そのお妃の豊玉姫は、やはり前からこの国にをられたお方です」(10頁)と、この調子で、天皇の祖先神や神武・綏靖・安寧ら初期の天皇もまた「前からこの国にをられた方々」と婚姻し子をなしたことが説明される。そして、さらに神話用語を散りばめた解説がなされる。
ここで喜田は、天孫降臨してきた「天津神」と元から列島にいた「国津神」の平和的な婚姻から混血「日本民族」成立史を説明するが、その婚姻について、前者が父・夫、後者が母・妻であると性別を固定しており、混血の説明にしては不自然なものとなっている。わざわざ「天津神」を父・夫に固定する喜田は、男系主義の皇室観の持ち主であると言える。ここで生じている不自然さは、喜田が皇室を「天津神」の男系となし、その男系継承を「万世一系」とし、それを「国体」とするという論理構成を取ろうとした結果であると言える。
結論
皇位を窺う「不届き者」はみな天皇の末裔である(ことに「我が国体の尊さ」が現れている)ということは、言い換えれば、混血「日本民族」のうち、「天津神」の男系末裔は皇位を窺窬してもまだ「国体」の許容範囲内で、そうでない「日本民族」(「国津神」の男系末裔や「天津神」の女系末裔)がそれをするのはアウトだということである(平和的混血と同化によって成立した「日本民族」を称揚する喜田にしては、よくわからない差別である)。
以上を見ると、神話・皇室と混血「日本民族」成立史を結び付けて同時に説き、皇位を窺う「不届き者」がいたという「負の歴史」の肯定的な側面を無理やり強調するという、二重の「離れ業」を行った結果、喜田の論理構成には随分な無理が生じていると言わざるを得ない。
【余談】
天皇中心主義の歴史観から見たときの「負の歴史」の説明で、却って「国体」を賞賛するような事態が起こっているのは、喜田の上巻に限らない(本題から逸れるが、せっかくなので紹介しておきたい)。それは平泉の中巻における、承久の乱の叙述の中にある(余談ながら、本書で平泉が使っている用語は「承久の変」でも「承久の御計画」でもなく、「承久の乱」である。93頁)。
北条義時追討の院宣を出した後鳥羽上皇と戦うため、西上する幕府軍を率いる北条泰時が、父の義時に「上皇が自ら自ら戦場にお出ましになったらどうすればよいか」と尋ねたところ、「降参せよ」と答えたという『増鏡』の有名な逸話を平泉は紹介する。その中で、「義時、なかなか腹の黒い人間で、決して立派な人ではないのですが、かういふ大きな問題になると、さすがは日本人です」(94頁)と前置きしてから、義時の返答を紹介したのである。
義時は上皇と戦った末に上皇らを流罪にしたことで、戦前には一般に「不届き者」と見なされていた人物だ。また、平泉は後年、所謂「皇国史観」の代表的論者として非難を蒙る歴史家である。その平泉も、朝敵が朝廷に勝利した「負の歴史」の叙述の中に、ポジティブな評価を紛れ込ませているのである。
なお、平泉の北条氏評価については、以前こちらで論じた。
また、平泉と喜田の関わりについては、こちらで触れた。
【参考文献】
喜田貞吉『日本歴史物語 上 』アルス、昭和3年
平泉澄『日本歴史物語 中』アルス、昭和3年
中村孝也『日本歴史物語 下』アルス、昭和4年