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独占資本がサンタクロース? 平泉澄『少年日本史』配布運動の一端


かくも史実を歪曲した同書に、感激の涙を流した財界人は、児童、生徒を、独占資本主義と反動国家に忠実な奴隷にせんがため、やたらに、各地の図書館や公民館へこの書を寄贈しているのであろう。この書を読んだ青少年のなかから、反動勢力の期待する人間像が形成されるかと思ふと、背筋の寒くなるような気がしてならない。

萩原俊彦「紀元節=建国記念の日は日本近現代史上如何なる役割を果たしてきたか。」『史朋』(7)史朋同人、1971年8月。69頁

はじめに

 1970年11月1日、時事通信社から『少年日本史』が出版された。第二次世界大戦の敗戦とともに東大教授を辞職し、アカデミズムから姿を消した老歴史学者・平泉澄が少年への「最初の贈物であって、同時に最後の贈物」(同書はしがき)として書き上げた歴史書だ。
 著者が読者への贈り物として本を書くことはありふれたことである。しかしこの本には、著者以外の「サンタクロース」が存在した。彼らはこの本を小中学校に配ろうとし、教師たちの反発を招き、争いの種をまくことになった。
 なぜ歴史の本を学校に配ることが問題になったかを説明するには、反対派による非難の言葉を借りるのが早い。それによると、著者は「神がかりの超国家主義史観をさかんにふりまいた」「悪評高い戦争絶賛論者」(萩原、前掲69頁)で、本の内容は「絶対主義的天皇制を主張し、日本文化を築き上げ、日本の歴史を進めてきた日本の民衆と縁もゆかりもないもので、文部省教科書調査官の反動グループの主張に副うものである」(本多公栄『歴史教育の理論と実践』新日本出版社、1971年。121頁)であり、「小学校の教科書改悪の露払いをする役割をもつこの著書は、教科書裁判での家永判決に対するアンチテーゼとして出版された」(マスコミ共闘会議 編『マスコミ大国を告発する : マスコミ1971』労働旬報社、1971年。224頁)という。
 ここで少し解説が必要であろう。1970年7月、家永教科書裁判の第二次訴訟の控訴が行われた。この裁判は、歴史学者の家永三郎が書いた高校日本史教科書が教科書検定に不合格になったことについて、教科書検定は憲法が禁じる検閲にあたり憲法違反であると訴えたものである。家永に味方する歴史学者や教育者たちと対峙した文部省主任教科書調査官・村尾次郎は、平泉澄の高弟であった。敗戦とともに消え去ったはずの平泉学派が政府に潜り込む中、その親玉が戦前と変わらぬ思想で書いた歴史書が教育現場に散布されることは、「反動」を敵視する学界・教育界からすれば、由々しき事態であった。少し前の1966年には左派歴史家の反対むなしく「建国記念の日」が制定されたが、そこでも平泉学派(田中卓ら)の尽力があった。「進歩的」勢力は、これ以上蹉跌と敗北の歴史を繰り返すわけにはいかなかったのである。

 本稿では、『少年日本史』配布運動の一端を取り上げていきたい。あくまでも配布運動を取り上げるだけなので、この本の内容や平泉の思想には触れない。また、本稿は所謂「二次史料」を多用して配布運動を辿っており、叙述の実証性は担保できない(「どこで誰がこう書いている」ことまでの確実性しかない)ことは考慮して読み進めてほしい。
 なお、『少年日本史』はしばしば「民衆の姿がない」と批判されるが、本稿に「少年」の姿がないことは予めお断りしておく。配布したり反対したりするのは、あくまでも「大人」たちである。

1、時事通信社の出版攻勢

 『少年日本史』の出版元である時事通信社の土子出版局長は1970年12月1日付の社内報で次のように語っているという。孫引きだが紹介したい。

「少年日本史」の売り込み先は日ごろ懇意にねがっている調査会員(内外情勢調査会)をはじめ、地元の会社や銀行、県警察本部などが対象です。(略)生長の家の谷口総裁が一二月初旬に配布される機関誌で紹介すいせんしてくれるということです。(略)各地での一括で買い上げ分も、その計画に従って小学校や中学校に配られはじめたようです。

前掲『マスコミ大国を告発する』225頁

 内外情勢調査会は時事通信社の関連団体の社団法人で、生長の家は保守系の宗教団体である。宗教団体から警察まで幅広く売り込みを行っており、一括買い上げと学校への配布も計画的に行われていたという。さらに、福田勘産業社長が415部を富山県に寄付し、県教委が配下の学校に配布しようとすると県教祖が抗議、北日本新聞が大きく報道したといい、出版局長は「これもクチコミの役に立つと私はむしろ歓迎しているわけです」(同)と言っている。時事通信社は、『少年日本史』を学校配布も見込んで大々的に売り出すつもりだったのだ。(なお、時事通信社の大株主である電通は、同書を買い上げて社員の子弟に無料配布したという。前掲書、115~116頁)
 以下、各地域の配布事情と配布を巡る悲喜劇を見ていきたい。

2、宮城県の場合 読んでないけど寄贈した

 宮城県内の小中学校には各教育事務所を通じて、高校には校長協会の会議の席上で『少年日本史』が配られたといい、それらは宮城県内の各企業が有志として合計782冊寄贈したものであるという。東北電力100冊、七十七銀行77冊、河北新報社50冊……と寄贈者リストもある。七十七銀行の寄付数が77冊なのは面白い。(岡村和義「最近宮城県にあらわれた反動思想攻撃の若干の事例」歴史教育者協議会 編『歴史地理教育』(189)歴史教育者協議会、1971年11月。164~165頁)
 寄付者の中には、宮城県知事・山本壮一郎(50冊)も含まれており、そのことは問題になった。知事に抗議した高教組代表に、県秘書課長は「知事の交際費から支出したこと、本の内容はよく検討しなかったこと」を認めたという。そして知事本人は「本の内容は見ないで贈ったのは、いささか軽率であった。各学校で生徒の目にふれないようにしてもらってけっこうだ」「本の寄贈は私個人の責任でやった。ポケットマネーで出したものだ」と「いいのがれ」をしたといい、仙台市議会での共産党議員の追及や市教委に対する交渉の結果、仙台市では「図書館に入れさせない」ことになったという(同)。
 知事が本当に読んでいなかったのか、読んで内容を把握しているにも拘らず寄贈したことがバレる方がまずかったのかは定かではないが、少なくとも信念を持って寄贈したわけでないことは確かであろう。(宮城県知事が、自分は読んでいないと言い張る本を50冊も寄贈するなどということの裏に何もないとは考えられないが、真相は知り得ない)

3、石川県の場合 読んでないけど推薦した

 石川県でも『少年日本史』の財界による寄贈があり、県教委が配布を行った。県教委の推薦状をつけて小中学校に無料配布され、「憲法否認と反科学的尊皇愛国精神の宣伝が行われた」という(守屋典郎 著『戦後日本資本主義 : その分析と批判』青木書店、1971年。340頁)が、「石川県の教育長は、この推薦状をだした時、この本を見ていなかったそうです」(本多公栄「教育の現場から 最近の教育反動化の諸相」。国民文化会議 編『国民文化』(137)国民文化会議、1971年4月。7頁)。またも読んでいなかった疑惑である(「宣伝」する気があるのか疑われる)。
 県の教育長と抗議する県教組との間で、次のようなやり取りがあったという。(本多、同)
書記長「学校へ入れるとしても、職員図書に入れるのか、子供の図書室に入れるのか、校長室の棚に置けと言うのか。」
教育長「校長室でいいでしょう」

 校長室に置いてある本を児童・生徒が読むことはまずない。教育長は子供に読ませる気はないようである。
 また、「七尾市のある学校では、人からもらった物はありがたい物なので、礼状を書かなくてはいけない、といって小学校の五、六年生が、一〇人、校長の命令だと思いますが、礼状を送ったそうです」(本多、同)ともある。礼状を書かされた児童が読める場所に本は置かれていたのだろうか。

4、浜松市の場合 またも校長室送り

 浜松信用金庫からの寄贈を受け、浜松市教育委員会は飯尾晃三教育長の名前で市内の小中学校長あてに、全日本中学校長会会長福島恒春の推薦文をつけて無料配布した(本多公栄『歴史教育の理論と実践』新日本出版社、1971年。353頁)。後は似たような展開である。

浜松市の教育労働者は、内容批判をきちんとやりながら、さっそく抗議に立ちあがった。その批判の広がりにおそれた当局側は、やがて異例の再通達を流した。それには内容に問題があるので子どもたちの目にふれない校長室などにでもおくように、とのことだったという。

本多、前掲書354頁

 またも校長室送りである。
 『少年日本史』の国家観を「現行国家体制の実権をにぎっている独占資本の側の国家観」(353頁)と見なす歴史教育者協議会常任委員の本多は、「財界と権力に支えられて子供たちに送り込まれ」る「『少年日本史』は国民にはじきとばされるであろう。しかし『少年日本史』を、いささかでも軽視してはならない今日このごろではないだろうか」(354頁)と述懐している。『少年日本史』を「軽視」しない教師たちは、国民(児童・生徒)の目に触れる前に同書を弾き飛ばしているとは言えそうである。

5、新潟県の場合 読んで寄贈(珍しく?)

 新潟県で『少年日本史』の寄贈を担った「独占資本」は北陸ガスである。

昨年の暮、北陸ガスでは供給区域内の小・中学校へ「少年日本史」(平泉 澄著・時事通信社発行・定価1500円)410冊を寄贈された。これは別掲「おすすめ」のとおり敦井社長の発案によるもので、寄贈を受けた各地の市町長、教育委員会は、社長自らの訪問に恐縮しながら、時ならぬクリスマスプレゼントに大喜びであった。

『日本瓦斯協会誌 = Journal of the Japan Gas Association』24(3)日本瓦斯協会、1971年3月。99頁


 社長の「美挙」(そう書いてある)を自賛する文章なので、本当に「恐縮しながら」「大喜び」したのかはともかく(受け取る側の顔が何となく想像できるのは私だけだろうか)、社長自ら訪問するという熱の入れようである。
 「別掲「おすすめ」」とは、社長・敦井栄吉による寄贈文「「少年日本史」のおすすめ」であり、北陸ガスの社内報「さかえ」新年号に掲載されたものである。

11月初め、時事通信社の「少年日本史」を手にし、夜のふけるのも知らず一気に読み切ってしまった。著者はこの本で(中略)とのべておりますが、私もまったく同感です。
 戦後、初めて青少年のために書かれた正しい歴史「少年日本史」を次の世代を背負う皆さんにおすすめするのは、われわれ先輩の務めでもありましょう。 
 私どもの会社がお世話になっている新潟・長岡・三条・加茂・豊栄の五市と亀田町の小・中学校の皆さんに、さっそく本書をお贈りいたします。ぜひご愛読ください。

 この社長はちゃんと読んだうえで「おすすめ」している。当たり前だろという話だが、これまで読まずに寄贈・推薦してきた者ばかり紹介してきたので逆に新鮮である。

6、その他の地域

 他にも青森、熊本、長野の一部などでも配布運動があったという。こんな事例も報告されている。

八幡教育事務所の管理主事が私信、親展書の形で、各校長あて、平泉澄著「少年日本史」をすいせんしています。私の町では買っていませんが、松山市の一小学校では、20部も購入してゴマをすっている所があります。(愛媛・T)

「読者の声」 歴史教育者協議会 編『歴史地理教育』(179)歴史教育者協議会、1971年3月。64頁

おわりに

 以上、『少年日本史』配布運動の一端を二次史料に見える言及から紹介した。言説収集を越える実証的な研究を目指す方は新聞や社史、公文書を駆使してこの運動を明らかにしていただきたい。
 「独占資本」が寄贈し、県教委が学校に配布はしたものの、教師の抵抗にあって児童が読めない場所に置かれるケースが多く、配布運動の効果は疑わしい。ともあれ、1970年1月に初版2万部が出て以降、2版1万部、3版2万部、4版2万部、翌年2月1日には2万部……と版を重ねており、大きな金が動いたことは間違いない。絶賛する大人、読んだうえで批判しようとする大人たちには読まれたにせよ、少年たちにはほぼ読まれないまま版を重ね、剰え推薦者が読んでいないという事態は、著者の平泉が望んだ形ではなかったであろう。
 ここで平泉の門弟での回想を見てみよう。

昭和四十五年十一月二十九日、品川のお宅に同学が集められ、同月発行された先生の『少年日本史』を弘めることについてのお話があった時だったと思いますが、その時のお話の中で、「謀略はいけません。誠を尽くすことが大事です」ということを言われました。謀略とは何を指されたのか、先生の身近に何か謀略の動きがあったのか判りません。(中略)十年前のことですが、当時から何か身近にせまる謀略があったのかも知れません。

渡邉正之「平泉澄先生の想い出」『日本』(714)日本学協、2010年9月。37頁

 少なくとも、平泉は自著を広めようとしていたことは確かである(著者として著書が広く読まれることを望むのは当然である)。ここで出てきている「謀略」云々を渡邉は平泉に対する謀略のように捉えているが、順当に考えれば、『少年日本史』を広めるための何らかの「謀略」を指すとするのが妥当である。平泉の本が広まることを望んだり、そこに金の動きを嗅ぎ取った人々が、信念または利益のために、穏当でない手段で本を広める企て(「謀略」)を画策しており、自らの隠然たる影響力を知る平泉がそれを多少は耳にしていた、と見るのが自然であろう。
 この「謀略」の詳細は知り得ないが、誠意があったりなかったりする無数の「サンタクロース」が暗躍した配布運動を鑑みると、『少年日本史』の講談社学術文庫版『物語日本史』に平泉が寄せた序文の見え方が変わってくるように思われる。

願わくはこの小さき贈物を満載せる帆船の行手、風穏やかにして浪静かなれ。

『物語日本史(上)』講談社学術文庫、1979年。6頁


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