見出し画像

ぼくが僕になるまで(青年期③)

興味をもった方は、ぜひマガジンへ。全編無料でお読みいただけます。         

------------------------------------------------------------------------------------

「君に今、ご指導頂いているのは誰なんだ?」
「ご指導?」
「崇拝その他女性の取り扱い方について」ミユの細い眉がくにゃりと曲がって、真ん中に寄り集まった。「どうなんだ?」
 しばらくしてから、「佐竹君よ」とミユは言い放った。長い間会話を続けているとよく見かける、気怠そうな言い方だった。「あなたは見たことが、なかったかしらね」
 僕はコーヒーを啜った。まだ熱い。こういう熱々の、食事の後に出されるような濃いコーヒーを飲むと決まってお腹がゆるくなる。だから、熱いうちはちびちびと時間をかけて飲むに限る。それに今日は彼女の気ままな飲食ペースに合わせる副次的な意味合いもある。焦って飲む必要はどこにもない。カップを置き、彼女の方を見てみると眉が上へと向かっていた。僕がコーヒーを飲んでいる間に、少しばかりの気持ちの変化が見られたらしい。けれど、眉だけでは良い方向に向かったか判断を下すには心もとない。眉を上げる仕草を、ミユが自分の気分を高揚させるための自己暗示として使っているのなら、なおのこと。
「なにか言いたいんでしょ。とっかえひっかえわたしが変えるものだから」ミユは皿を下げに来たウエイターにコーヒーを頼んだ。「わたしにはミルクをつけて下さいね」ミユはウエイターに微笑みを与える。
声を張り上げなければ声が届かない位置までウエイターが下かったところで、「僕からはなにも言っていないよ」
「目にちゃんと書いてあるわ」
「それは僕の与かり知らないところだ」コーヒーの表面には何も映っていなかった。表層の黒い輝きから想像するに、喉を焦がすにはうってつけの温度だと知れる。
「何かいいたいのならどうぞ。受け付けるわ」彼女は肘を当てにしてテーブルに寄りかかった。
「君がそう言ってくるとはめずらしい。ようやく人の意見を参考にするようになってくれたのか」
「あなたが大人の女性に対する節度と恭順の思いをもってわたしに接してくれれば、いつだって受け付けるわよ」
「どこに節度と恭順に値するご婦人がいるというんだい」


 ミユは背凭れへと後退し、両肘をそれぞれ反対の手で包んだ。側面から見る白い腕は、正面とあまり変わり映えはしなかった。細くて、どんな奇抜な形をした袖にでも難なく通りそうだ。「あなたと話すとほんとうに疲れる」
僕はコーヒーを一口分、口に含んだ。まだ冷めてはいなかった。どうやらカップに残った量もまた問題の一角を担っているらしい。多ければそれだけ冷めるのには時間を要する。単純なことだ。「若い男の無茶な話ぶりを優雅に聞き流すのも、大人の女性の嗜みじゃなくって?」
 彼女は後ろの位置に居座ったまま手を伸ばし、器用にミルクを入れていた。丸い輪っかにいくつかの点。「あなたなんか若い男のうちに入らないわよ。丁稚の若造といったところね」
「それは心外だ。まだご主人様に奉公している身だとはね。僕としては手早く修業を切り上げ、苦労をかけた母親にせめてもの恩返しをしたいもんだ」
 ミユは小鼻を縮ませて、鋭く息を吸いこんだ。それにつられ、一口目を頂こうと手に持っていたカップが震えた。「そういう意味で言ったんじゃないわ。もしそう聞こえてしまったのなら素直に謝るわ。ごめんなさい」
 ミルクを抜き取られた後の容器が小皿の上に倒れていた。蓋には少しばかりのミルクが付き、容器の底にも少しばかりのミルクが溜まっている。「よしてくれ」口に残っているコーヒーの苦さが鼻についた。「君が僕に向かって謝っている姿をもし誰かに見られたとでもしたら、僕はそいつに大事な耳を削ぎ落されてしまう」
「なによそれ」小鼻と一緒に眉も中央に押しかける。
「君の背後には数十名の臣下、とりわけ運動能力に長けた者たちが控えているだろうから」
「あなたになんて、謝らなきゃよかった」彼女は元の形に復帰した鼻から息を吐きだすと、カップに口をつけた。一口が長い。どうやら彼女のコーヒーは、前もって飲みやすい温度に調整されていたようだ。
「今頃気づくとは、君もまだ僕に学ぶべきところがあるようだな」
ミユはカップをテーブルに戻した。戻した後、しばらくの間彼女はカップを見つめていた。まるでその波の揺らめきになにかしらの意味が込められているとでもいうかのように。


 彼女のカップで行き来する波が落ち着くまで待ってから、「それで佐竹ってのは、どんなやつなんだ」と僕は訊いた。
「知ってるんだと思ったけど」下を向いたまま彼女は言った。「あなたぐらいの背丈で、髪は黒。サッカーをしてるから、あなたよりはがっちりとした体型ね」
「僕はスポーツ事情に疎くてね。回り回って、今はサッカーがもっぱらの流行りか」
「流行でなんて選んでいない」彼女は僕の顔を見るためというより、おそらく身体からの反射に従って顔を上げた。
「そうなのか。てっきり││」
「スポーツの種類は関係ないわ。二度も言わせないで」
「サッカーの前はバスケ。その一つ前はバスケ。バスケラグビー水泳ボクシング」
「ばっかじゃないの」ミユは眉を中央へと引き寄せた。元の位置に戻すには巨大な洗濯バサミで両方のこめかみを挟みこんでやる必要がありそうだった。
「ラグビーの前は、ラクロスだったか」
「もう、何なの」眉の他にも唇が近寄った、というか変形するまで互いに寄せつけ合った。「まるで、スポーツのカタログでも作ってるみたいじゃないの」彼女は口を閉じると、急に気になったかのようにテーブルの上に置いてあったスマートフォンに手を伸ばした。指を滑らして臨時のニュースをチェックする。とんだ現代っ子だ。休みの日でも皆の行動を全部知っておかなきゃならないんだ。友達のユウカが食べた今日のランチ、アヤコが気になっている外国のバンドメンバー、ドラマやニュース、シンジが送った今週一週間、もしくは長期休み前半戦の総括。


 彼女がスマートフォンから手を離し、元あった場所に戻したところで僕は言った。「僕なんか三か月の間、誰一人とも連絡を取らなくても気にならないのになあ。気を付けてくれたまえよ。僕みたいに微笑んで見守ってくれる人だけで世の中が回ってるわけじゃないんだから」
 彼女は机に置いたスマートフォンを罪深い目で見た。それが全ての事の発端であり、なおかつ捨て去ることが自分には到底できないとでもいうかのように。「なんであなたはそんな性格になってしまったの?」
「たぶん人より孤独に対して耐性があるんだろう。たぶん三か月の山籠もりの後に人里に下りてきても、前の僕となにも変わっちゃいないだろうな。変わるところがあるとすれば、タオルをいつもより長めに使ってしまうぐらいだな」彼女は理解できかねるというように、目を見開いて僕を見ていた。
ある程度の休憩を挟んでミユの目が自然に小さくなるのを待ってから、「さっきのことだけどね、非難しているわけじゃあないんだ」と僕は言った。「むしろ関心しているぐらいさ。それだけ君はスポーツに目がないってことだからね」
「ちゃんと性格を見て判断してるわよ。振り返ってみれば、皆さんスポーツに励んでらっしゃる方々だったかもしれない。でもそれは振り返ってみればの話。最初からそれを目当てに選んだみたいに言わないで。それにね、一番大切なのは優しさよ。わたしは彼らから、あなたみたいな扱いをされたことがないわ。彼らはあなたみたいに人をはぐらかしたりしない」
「なるほど。彼らの中の誰一人として、君とは長い仲にはなれなかったということか」彼女は不眠その他、身体の不調に関わる全ての元凶を見るように僕を睨みつけてきた。彼女の眼力さえあれば、石にはできないまでも、対峙している相手を慄かせるぐらいはわけなくできるだろう。けれど、残念ながら僕に対しては効果がない。そのことに関してはずいぶん前に免疫ができてしまっているから。僕を慄かせたいのならより直接的な関与が必要だ。「それじゃあ聞くけど、今度のサッカーは万年玉拾いの選手なのかい?」
ミユはカップの持ち手に手をつけていた。「彼はレギュラーでミッドフィルダーのポジションよ」とミユはぼそぼそっと呟いた。
「合わせて訊くけど、前のラグビーは万年記録係だったかい」
「サッカーでもラクビーでもないわ。佐竹君と、吉田君」ミユはカップを持ち上げず、両手で包んだ。自分の内に宿るなけなしの体温をつるりと光る卵に分け与えてやるかのように。「ケガしたときはベンチだったけれど、その時以外はスタンドオフのポジションだったわ」
僕は腕を組んで、そのことについて深く考えているふりをした。「なるほど」
「なにが、なるほどなの?」彼女はいずれ来たる孵化を楽しみにしながら僕の方を見た。
 僕は口に出すのがひどく億劫だというように、「君は性格を見てると言って、実のところ一番見ているのはその彼氏とやらのポジション、それとチーム内の地位ではないのじゃなかろうか」ああ、玉拾いに幸あれ。
「たまたまよ」彼女はいつまで経っても孵化しない卵を心配するような目つきでカップを見ていた。


 なんだか柔らかい、羽毛か何かで出来たベッドに潜り込みたくなってきた。そこで分厚い毛布に包まれて、厳しい冬が通り過ぎていくのをじっと待つのだ。いつの日か洞穴の入り口から、元気良い鳥のさえずりが響き渡ってくる瞬間を絶えず夢見て。「君は性格といっておきながら、そこにはある一定の基準を引いているんだ。容易に跨げない一つの境界をね。つまり君に性格の良し悪しを判断されるためには、まずレギュラーを勝ち取っていなければいけない。それもケガ明けでもすぐにチームに必要とされるような選手でなければならない」
「なんであなたはそういう見方しか出来ないの。あんまりよ」
「そうとしか僕には見えないんだが」
「少なくとも、あなたが言う理由で相手を選んでいるわけではない」彼女は一つ一つの文字を区切るように発音した。まるで一つ一つのシラブルの大切さを再確認しているかのように。
「じゃあ彼らがスポーツマニアじゃないって、僕を納得させてみろよ」
「ちょっとあなた頭がおかしいんじゃない」彼女の目を見つめていると、自分が本当に頭がおかしくなったのだと思えてくる。少なくとも正常の範囲には収まっていないのだと。「彼らのことをスポーツマニアだって言うなんて」
「その通りじゃないのか?来る日も来る日もスポーツに明け暮れ、目に入ったボールにめがけて適時殺到する。食事のとき思うのは何をおいてもまず筋肉のことであり、その成長と回復のことなんだ。彼らの体脂肪を見てみろ。驚くべき数字を叩き出してくれるに違いない。それ以外が全て筋肉で出来てるってわけだ。それでも彼らはまだその数字を減らそうと鍛錬に暇(いとま)がない」
「成人男性の組成の六十%は水分よ」彼女は気怠そうに言った。コーヒーはもう茶色で冷え切っているようだった。僕のコーヒーはもう口に運ぶまでもなく冷え切っている。「そうね。彼らは少しばかり身体に気を遣い過ぎている。彼らが自分の身体に重きをおきすぎてるってことはわたしも認めるわ(僕のひたむきな視線に咎められ、彼女は前の発言を撤回し、マイルドでない、より正確な言い方に直してくれた。まあそれでも不十分なことには変わりないけれど)。でもね、それはあなたが言うほどには悪いことではないと、わたしは思う。彼らは熱心なだけよ。とにかくあなたが彼らにとやかく言う権利はないわ」


「とやかくねえ」僕はコーヒーを啜った。食道には心地よい温度だったが、コーヒーとしては落第だ。どっちつかずが一番悪い。「僕は君が付き合ってきた歴代の男たちが、偶然にしてはあまりにもスポーツに長け、熱心じゃないかと言いたいわけだよ」
「仮にもしそうだとして、何がいけないわけ」ミユもコーヒーに手を付けた。もしコーヒーからミルクが抜き取られていても、もしくは三倍量のミルクが入れられても気がつくことはなさそうだった。
「もしそうだとすると、僕は君に一つ忠告を与えなければならなくなる。彼らはスポーツを愛するばかり、大半の時間そのことで頭は一杯だ。生活は全てスポーツの上に成り立っている。一つとして例外はない。そしてその残滓ともいうべき余った時間を使って君のことを考えるわけだけど、必死に使い古したその疲れた身体に、スポーツで培ってきた余りある知識の数々を組み合わせると、一体どうなると思う?」僕は聴衆の反応を見てみた。その一人の聴衆は僕の問いかけにいささかも反応してくれていなかった。どうやら話者よりも話者の立つ背景に、より重きを置いているらしい。      「つまり、女と言うものは須らく自分を癒すべき存在であると、彼らは思ってしまうわけなんだ。数多い部員の中からレギュラーを勝ち取ってきた皆さんのことだ、ある程度は自負心もおありのことだろう。その自負心を鑑みるに、他の人からも、君のような麗しい女性からも同じように、少なくともちょっとぐらいは評価されていると思い込んでいるはずなんだ。もちろん熱心に一つのスポーツに取り組んでいるっていうことは何ら非難に当たらない。それはとてもとても素晴らしいことだ。誰にもできることじゃあない(彼女は目を細めて、少なくとも僕には出来ないことを伝えてきた)。でもそれが必ずしも評価に直結するとは僕には思えない。つまり評価されるということと、全力で取り組んでいるということは、全く別次元の話だと僕は言いたいわけだ。その全力で取り組んでいることが、例え誰にとっても誉るべきものであったとしてもだ。評価するのは個々人の自由でしかない。それに期待をかけてなんかいけないし、ましてや強制力なんてものは存在しない。だけど彼らは自負心から君のような麗しい女性に自分の肉体を評価してもらいたいと思っている。それは自分が長い時間手間暇かけて育て上げてきたペットを君にみせたいようなものだ。そうするとどうなると思う。彼らはそのために君らの性格よりも、その外見つまり彼らが鍛え上げてきた肉体と、どれだけ調和がとれるかと言うことをひどく気にかけるんだ。人それぞれ多少の違いはあるけれど大体同じようなものだ。そして君たち女性は彼らの前でステーキを頼むことは出来ないし、もし頼むにせよ、半分ぐらい食べたところで辞退しなければならない。彼らは君らのことを菜食主義ではないにしても野菜好きの、トマトとレタスとルッコラがあれば済む人間だと見做している。もし君が彼らの前で同じ量の肉とポテト、それにビールを平らげてしまったらどうなると思う。彼らは君ら以上に食べなければならないし、それだけの肉とポテトとビールを平らげられた理由、臨時的で納得のいく理由をどこかから引っ張りあげてこなけりゃならない。僕が一番危惧してるのは、彼らが君ら女性陣のことをそのように画一化して見ているんじゃないかってことだ。もしその幻想が破られれば彼らは不機嫌になる。どうしてもその枠に女性を押し込めようと躍起になる」
「あなたが思っているより、彼らは可塑性に富んでいるわ」ミユはより細く目を細めた。その細さでも視界は十分保てるわけだ。
「そうそう言うのを忘れていたけれど、君は一度でもいいから彼らにユーモアというものを発揮して見せてやったことがあるかい。君のその、アイデンティティ―とでもいうべきそのユーモアを」僕は口角を上げて、微笑みとされるポーズを形作った。
「あなたと同じように、とは言えないわね」彼女はゆっくりと言った。
「まっそうだろうな」


 彼女は呆れたように小さく息を漏らした。僕に感情を伝えるには身振りさえする必要もなく、その狭い鼻孔から少し早めに息を吹き出すだけで事足りるというわけだ。「彼らはあなたみたいに変な単語を並べ立ててわたしを攻め立ててこない。だから、わざわざそうする必要はないの」
 僕はカップに居残っていたコーヒーを最後の淵まで飲みきった。すでに風味は失われていた。僕としては喉に潤いをもたらすという、その点だけに期待をかけたわけだ。「君は気づいていないかもしれないけれど、それが一つの弊害なんだよ」ちょっとは滑らかさの増したはずの喉を使って僕はしゃべった。「君は僕に対しては何でも口にする。言いたくなったその時にはクソとかバカとか口に出している。それは一向に構いやしない。いくら言ってくれても僕は構わない。僕も君に同じようなことを、もっと上品な形で口にするしね。だけど彼らの前で一度でもそのような類の言葉を吐いてみてごらん。たちまち彼らは真っ青の萎びたナスみたいな表情になって、どうしたんだいとか聞いてくるはずだ。そしたら君は、いやなんでもなくって嫌な人のことを急に思い出しちゃって、とかなんとかいって取り繕わなければならなくなる。それこそ確たる証拠だ。彼らが一つの既成概念で君を考えている証拠だよ」
「何よ一人で熱くなっちゃって。わたしだって好きでそんな言葉を使っているわけじゃない。出来ることなら口になんかしたくない」
「何とでもいうがいいさ」
 しばらくしてから、「わたしの男性の好みについてあなたがわたしにとやかくいう権利などないわ」とミユが言った。「頼んだ覚えもないし」
 僕はため息をつきたくなった。僕がため息をついたなら、ミユのようにさも繊細な器官を何とかくぐり抜けてきましたよ、というような音がはたして出てきてくれるのだろうか。そのような音が僕の二本のチューブから出てきた試しは風邪を引いた時を別にして、経験上ないように思う。「そりゃそうだ。ただ僕としては幼馴染がこれまで先人たちが辿ってきたのと同じようになって欲しくないわけだよ。当然のごとく彼らの考えを受け入れ、その教義に従ってどこかの弁護士かなにか、世間にも親にも上手く説明のつく一人のうら若い男性一人を捕まえ、よき家庭を作る。君にはそうなって欲しくないんだよ」
 その時、テーブルに置かれたスマートフォンが震えた。その震えは頑なで手に取らない限り止まりそうになかった。彼女は咎めるようにスマートフォンを見ると、僕の方をちらっと見てから手に取った。テーブルからは離れずに、手で送話口を覆うことでミユはプライバシーを保とうとした。部下が近くにいるためにこの場では込み入った話ができない、とでもいうように。声が小さく、いまひとつ要件がつかめない。僕が部下で、ミユは上司。部下の僕は今のところ邪魔以外のなにものでもない。僕の方こそ席を離れたほうがいいのかもしれない。お偉方から呼び直されるまで一旦外に出ておいた方がいいのかも。


 しばらくして会話が終わると、ミユはスマートフォンをテーブルの上に戻した。顔は上げずに視線はカップに向けられている。ぼんやりとした視線だ。そうして見ていれば、いつか水面が割れ、中央から何かとてつもなく崇高な人物が歩み出してくるらしい。でも僕のカップはそういう仕様にはなっていなかった。僕のカップの底には円を描いて一筋の線が引かれているだけだった。「それのどこがいけないっていうの?」と彼女はカップに向かって言った。
「いけないとは誰も言ってない」と僕も、束の間の休憩なんてまるで挟まなかったかのように続きから話始めた。「ある人にとってはそれは素晴らしいことだと思う。子供を育てるということはどんな場合においても称えられるべきことだ。が、だ」僕は鼻から大きく息を吸いこんだ。僕の太いホースはこういう時に本領を発揮する。「僕は君と一緒に育ってきて、まあ断続的に君の成長を見させてもらった証言者の一人として助言するわけなんだけど、君はそんな人間ではないと思えて仕方ないんだ。なにしろ君は大人の女性たる確固とした気品を持ち、一人の男性を手ごまに取れるだけの知性と分別を持っている。それに語彙力もこの上なく豊富で、その弁論術の方面如何はいうまでもない。そこでだ。そういう一人の才能豊かな女性が家庭に閉じ込められてしまうと、一体どうなると思う?君は自分が何もさせてもらえない隔離された存在だと感じるだろう。子供が幼いときはまだいいかもしれない。でも子供が自分の手から離れ、時間に余裕ができ、ぼちぼち職にでもつこうかなと思った時どうなるだろう。新人に任せられるのは、まあ良くても上司の仕事を分け与えてもらうことだろう。そこには創造性の類なんてものはまるでない。君のもつ素晴らしい発想力、ましてや豊富な語彙力なんて必要とされることはないんだ」
「ちょっと待って」彼女は顔を上げ、「なんでわたしが結婚したら絶対に家庭に入るって思うわけ?もしかしたら働き続けるかもしれないじゃない?」
「そりゃそうだ。だけどそれをスポーツマニアが許すと思うかい?彼らはいつでも自分の物を囲おうとする。ひとたび手に入れたら是が非でもそれを離しまいとする」

 ウエイターが僕らのテーブルの横を歩いて行った。僕のカップは空だったけれど、彼は何にも言ってこなかった。今日の彼は女性にしか出せない高音域の声にしか反応しないのだろう。
「それは偏見ってものよ。彼らはそんな人たちじゃないし、それにみんながみんなあなたの言うような一つの信条に沿って生きているわけではないわ。彼らは彼らなりに個性というものがあるのよ」ミユはソファの上で寝そべりたそうだった。だけど、彼女にあてがわれているのは堅い椅子だったから、彼女はテーブルへと身を委ねることしかできない。
「そうだね。佐竹君はボールを蹴るとき少し膝が内側に入る癖があるように。前付き合ってた瀬川君は、いや斎藤君?まあ安田君はボールを投げるとき手首にスナップが効きすぎる癖があったように」
「もっと大きなもののことをわたしは言っているの。例えば彼らの中にはリストをこよなく愛している人もいるかもしれないし、マラルメの詩集を枕元に置いている人もいるかもしれない。人それぞれなのよ。一緒くたにまとめるのはよくないわ。彼らは彼らの生活だったり呼吸があるのよ」
「でもあいつらがバッグの中にバイロンの著作を一冊忍び込ませていたり、カラマーゾフの兄弟を宿舎のベッドに持ち込んで寝る間も惜しんで読んでいると思うのかい?」
「まあ考え難いことではあるわね」と彼女。「彼らは日々の練習で疲れているのよ。彼らだってわたしがそういう作品を読むことに異論は挟まないはずよ」そういう彼女もひどく疲れているようだった。
「まあそうかもしれない。でも彼らはそうしない傾向が強いかもしれない、君が読書をしているのを見て難色を示すかもしれない」
「もう何が言いたいの」彼女は前にのけ反らしていた背中を後ろへと倒した。だがテーブルから離れたといって、僕の耳に届いた声の大きさはあまり変わらなかった。むしろ大きく聞こえたぐらいだ。「とにかくそういう人たちとは付き合わないほうがいいというわけ?あなたのように自閉症気味で、人のことをあげつらうのが最も好きで、一番のお気に入りはスマートフォンの電源を切ってもう誰にも邪魔されない環境を作ってから読むランボーの詩集で、スポーツを純粋に楽しんでいる人たちのことを蔑んだ目で見て、だけど自分は走るのが好きで、プロランナーを見ると狂信者とか騒いで、興味のないことにはとことん無関心で。そんな男を選べっていうわけ」
「なんとまあ僕を多方面から見てくれていることか。恐れ入ったよ。でもとうぶんの間は褒めて頂かなくて結構だ。今のでたらふく満足したよ」僕はテーブルの上で指を組み合わせた。ミユもテーブルの中央の方に近寄っていたから、比較的近距離での話し合いになった。でも僕ら二人が人に聞かれないようこそこそ話しているようには見えなかっただろう。それには向かい合っている各人双方からの協力が必要だった。「僕が言いたいのは、そういうことを意識せずに生きてしまったら、いつの間にかそれに飲み込まれてしまうってことなんだ。つまり君があと何年か経って家庭を持ったとき、今のような自分を批判するような、僕をあげつらう様な視点を持てなくなるということだ。一日一ページとして本を読まず、ただ男からの愛情を当てにして、そのことにばかり気を遣う日々。以前の自分に戻ろうとしても、手始めに何から手を付け始めればいいのかもわからない。慣れってものは案外恐ろしいものだよ。相当な努力なしにはその生活にとことん慣れ親しんでしまい、しまいには違和感なく溶け込んでしまう。要は、君にそうなって欲しくないんだ」
「それであなたはその初めの一環として、いまわたしがしているような男の選び方はよくないと親切にも助言してくれているわけね」
「まあそんなところだ」
「じゃああなたはやっぱり自閉性気味で││」
「いや、そうじゃない。選ぶべき男を自閉性気味の男に縛る必要はない。それにスポーツというものをただその活動に絞って見ている男である必要もないし、小説において全体よりは部分にこそ全てがあると思っている男である必要もない。ただもっと主体的に広く物事を捉えてもいいはずだと思っただけだ」
「主体的ね。それってすごく大事なこと。人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである」
「それは誰の言葉?」
「ジャン=ソオル・パルトル。へどについて書いた人よ」
「へどね」
「そう、へど」ミユは微笑んだ。口につられて眉も水平に広がった。
「そんなのを君の彼氏さんにふっかけてごらんよ。おそらくやっこさん、次会った時へどについてとても詳しくなってるぜ」
「そんなの言っても相手にされないわ。ただパルトルってフランスかどこかのサッカー選手?って聞かれるぐらいだわ」
「それだけ分かればたいしたもんだ。拍手して褒め讃えてやってもいいな」

いいなと思ったら応援しよう!

バナナフィッシュ。
サポートしてくださると、なんとも奇怪な記事を吐き出します。