露統合250周年
昨日は号外でしかも長文の投稿があったため、今日は短めにいきたい。
今からちょうど250年前(1772年)におきたポーランド第一次分割のこと知っている人も多いだろう。ウィキペディアによるとポーランド第一次分割は、『1772年に行われたポーランド・リトアニア共和国の最初の分割。すでにロシア帝国の属国と化していたポーランドは、中・東欧の勢力均衡を図ったロシア帝国、プロイセン王国、ハプスブルク帝国(オーストリア)によりその領土を蚕食された。ポーランド軍はこうした隣国に抵抗できるだけの軍事力を持っておらず、また三国軍が迅速にポーランド領を制圧したために、ポーランドは1773年に分割セイムを開き、分割を承認せざるを得なくなった』。ちなみに、ポーランドは合計三度の分割(第二次:1793年、第三次:1795年)を経験し、三度目の分割の末、ポーランドという国は地図上から100年以上の間、姿を消すことなる。
つまり、一般的には、露がポーランド分割をプロイセン、オーストリア同様に行っていたと言われる。だけど、これのきっかけが案外(正しく)知られていない。それは当時露の女王だったエカチェリーナ二世が進めた当時のポーランド領に住む露正教徒のベラルーシをポーランド人の弾圧から救い、白露(ベラルーシ)を露(大露)と再統合させたことだ。そして今年がその大露と白露(ベラルーシ)統合の250周年の年なのだ。ちなみに今年は、小露(ウクライナ)ドニプロ川の左が大露に統合されて355年経つ年でもある。そして当時から小露(ウクライナ)の一般市民は大露の一部としての存在を望んでいるのに対し、一部のコサック集団がポーランド入りを目指していたが、同じくエカチェリーナ二世の代でこの辺りも片付き現在のウクライナが完全に大露の一部となる。要は、露もウクライナもベラルーシもソ連崩壊後に独立国家として歩んでいるが、歴史の観点、人的交流の深さを鑑みてほぼ同じ民族(すくなくとも兄弟民族)と言って差し支えないだろう。露とベラルーシ間の併合(連合国家の設立)がかなり前から話題になっているのに対し、ウクライナがその間、露から離れていく一方だった。
露にとって、ミンスク条約を使えなくなった状態はやはり宜しくないと考えていながらも、上記を踏まえ、今回の露によるドンバス地方2か国(ドネツク、ルガンスク)の独立承認も、これら2国のウクライナの弾圧から救わないといけない状況に置かれたのも露にとって、天からのお示しだったのかもしれない。同じ露正教徒、同じ露人を助けることは露国防を保障する以上の意味を持っているのかもしれない。
今日はここまで。