デス・レター(コロナとサブスク)
コロナ中である。蟄居継続中。ひまである。であるから必然的にツイッターをボーと眺め、しかるべき方々にはお返事を出す。そんな中からこの雑文は生まれた。
断絶交流の頭目、川口純平は大意こう言う。
「高校時代の川口はCDを常に50枚くらい持ち歩いて、CDウォークマンで聴きまくっていた。今はサブスクの時代。それを高校時代の自分に言ったら『うるせえ』って言われそうだ」
この雑文は、この事に反応したものである。かつてにたないけんとの間で盛り上がった、「サブスク不要論」にまつわる議論を含め、今一度掘り起こしてみたい。
話はドーンと跳ぶ。俺はインドカレーが大好物である。うちの近所には何件かカレー屋があるが、どの店も一長一短であった。最近駅前にうまいカレー屋ができて、俺はそこを馴染みにしている。駅まで徒歩10分。わざわざ歩かねばならぬが、里芋とチキンのカレーランチのためなら、ちょっと足を労しても行く。たかがランチで大げさだが、食後の幸福感は、何物にも代えられない。
便利は、人を幸福にしただろうか。俺にとって、そのカレー屋とは、俺の努力の報酬である。幸福は、努力なくして得られないのではなかろうか。
サブスクは、便利が人を幸福にする、というテーゼの、雑な実現であると俺は見る。すなわち、「便利だから幸せ」という因果関係を無批判に信じている気がする。それは、科学の進歩は人間を幸せにするという、科学進歩史観と全く同じ軌道である。核融合/核分裂の発見は、我々に原子力発電という、排ガスゼロの恩恵をもたらしたかに見えた。だがそれは同時に、広島/長崎への原爆投下、スリーマイル/チェルノヴィル/福島と3度のメルトダウンを起こし、海水汚染のリスクは高まるばかりである。科学の進歩は全き善であるはずがない。「ならば、電気を使って鳴らすエレキギターをおまえは鳴らすな」という反論があるが、詭弁である。原発がなかった時代に、我々は何とかしていたのだ、努力して。今原発が亡くなったとしても、最早原発に頼れない中で、何とかすればいいだけの話だ。
サブスクのいいところは、数億曲あるというストックから、検索一つで好みの音楽を聴けるところである。便利である。さてそうすると、俺が川口との対話で言ったように、「音楽=アートである」という人間の感性そのものを抹消してしまった。フィジカルCDは、ジャケットの視覚芸術、インレイの文学性、そして音源の聴覚芸術を併せ持った、複製芸術の総合芸術である。サブスクは、このうちの聴覚だけを切り取った。インデックスの小さい写真なぞ、履歴書の証明写真と同じである。
こういう俺もまた、自身の作品をサブスクに乗っけている。それは、ライブ/フィジカル購入、さらに言えば、俺たちの知名度そのものを宣伝する手段としてなのだが、その裏の真意として、俺は、サブスクで俺たちを知れば、ライブにお越しになったり、フィジカルをお求めになったりするだろうという、リスナーの努力、もっと言えば善意に依存した考えがある。
だが、便利は人をバカにする。便利が人から奪ったものは、努力だ。つまり、サブスクで俺たちを知ったからと言って、俺たちのライブに来るとは限らない。というか、ほとんど来ないだろう。そうであれば、俺たちは、経済的社会的感情的に幸福ではない。一方、リスナーも、サブスクに幸福を感じているのだろうか。音楽がほとんど生活の一部になってしまって、幸福も何もないのではないか。再度問いたい。便利は人を幸福にしたのだろうか?
川口は、サブスクは使ったら便利だよーと、昔の自分を挑発する。サブスクの利点もあるよ、と。だが「便利」の一歩先がないように、俺には思える。それは「音楽の幸福」である。昔の川口が「うるせえ」と返したのは、荷物になってもCDを持ち歩くことの幸福を、川口が直観しているからではなかろうか。
よしんば検索という幸福があったとしても、昔の、なじみのレコード屋に行って、安売りのラックを繰りながら、思わず掘り出し物に出会った時の多幸感、そのプロセスにおける努力に、サブスクがどれだけ伍せたというのだろう?
俺は、ライブを観るという幸福感を知る人間である。それは、(言っちゃあなんだが)ほかの凡庸なバンドを見ることになっても、お目当てのバンドの躍動する姿を見たい、そのためには3000+1drink払うという経済的感情的努力をあえてしなければ手に入らない、ということだ。効率重視の世の中に純粋培養された人々が、その努力をするだろうか?「便利だから、いい」というテーゼはここまで通俗化、凡庸化されて、人々から努力を奪った。それは、幸福なことだったのだろうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?