デス・レター(「転ばぬ先の杖を折る」について、あるいはボブ・ロス考)
この文章は、タイトルにある通り、同じNOTE内、ガメ・オベール氏が書いた「転ばぬ先の杖を折る」というタイトルのコラムに触発されたものである。原典、是非一読されたい。その上で、この内容が俺の身の回りに十分関わることだと思い、このコラムを書いている。
俺は去年まで、医学部に行きたい学生向けの予備校で、小論文の講師をやっていた。医学が人命を扱う職種である以上、出題される問題は、単に医学用語の知識の有無だけではない。当然、人倫に関する話題も問題の対象となる。小論文講師は、であるから、倫理観に関する座学も行わねばならない。
というわけである日、学校での「いじめ」に関する座学をやった。例えば教室内での失禁の場合、その原因は、当事者が発達障害であったにしろ単なるミステイクであったにしろ、すぐ、発見者と「高度な倫理観」を持つガキによって告発される。いじめの発端である。「ここは学ぶ場、用は便所で足すべき、なのにこいつときたら」→①汚ったねぇ!②常識知らず!③バッカじゃないの!等々→こいつが悪い→だから、非難されて当然だ。こういうリクツだ。もっと曖昧な理由でもいい。「あいつはいけ好かない」これでもいじめは起こる。
このリクツは、「教室のあるべき姿」という観点から見れば「正しい」し、「いじめコアグループ」のリクツは、この意味において強固である。
だが。このリクツが正しいか否かなど、この際どうでもいい。失禁をした瞬間の、当事者の屈辱感をどう緩和するかが、直後の周囲の思考として最も大切だと俺は思う。失禁は、まあ汚い。だが、その汚さを上回って、当事者は屈辱感に苛まれることを想定して、当事者をいったん退出させるなり、「失敗したんだから許してやんなよ」と言うなり、「じゃーおれもしよー」とか言っていきなりシャー、いやこれはないか。まぁともかく、何らかの方法で、当事者の(傍から見ての)失敗を「大丈夫だ」と思わせる行動があるべきだ。
という話をしたら、学生(元学生もいたが)のほとんどは、その時傍観者だった、あるいは無関心を装っていたと告白なんだか発言なんだか、した。失禁は自己責任だとまでいう奴もいた。俺は、心の中でガックリきた。この生徒たち全員、いじめコアグループのリクツに乗っかって生きてきたのだ。彼らは皆、「正しさ」の中に生きている。その「正しさ」とは、「場の秩序にとっての正しさ」である。
現在の俺の棲息地は、インディーロックである。すなわち、ライブハウスとスタジオである。ライブハウスでは「失禁」は、毎回起こっている。ペダルのパッチが抜けて、音が出なくなる。スティックが飛んで、替わりがない。靴が脱げて、ペダルが踏めない。弦は切れる。歌詞が飛ぶ。拍を間違える。「失禁」に事欠かない。「失禁」をした当人の表情はさまざまだ。怒る者。困った顔をする者。びっくりしながらも弥縫する者。その弥縫が新たな展開を生んで、面白がる者。一方客は、そんな「失禁」をもゆるゆると受け容れて、だーははは、と笑いながら、揺れながら、酒を飲む。時には嫌いな音楽に場を中座し、また戻っては、揺れ始める。ここでは、「場の秩序維持のための歯車」という感覚は、ない。人々がわらわらと集まって、不思議な、ふわふわした秩序が「出来上がる」。これが、俺には気持ちいい。(尤も、ライブハウスにまず秩序を求めるミュージシャンも、いるにはいる。俺はだから、そいつらの音楽は嫌いだし、対バンしても、絶対に席を外す)
俺にとっての「正しさ」とは、俺のその瞬間の決断そのものである。だから、結果がどうあれ、良い。決断が実を結ばなかったら、「ごめんなさい」と言って引っ込めればいい。また周りの人も、だーははは、と言っていつの間にか後ろめたさは溶解している。俺は甘やかされているか?そうだその通りだ。尤も、その「甘えの構造」を俺たちは「寛容」と呼んでいるんだが。
「転ばぬ先の杖を折る」者は、誰か。それは、不寛容の人である。不寛容はなぜ起こったか。それは、理想の実現のために「こうあるべき・あるべきではない」のスローガンをまず守ろうとするからだ。個人の理想は国民全体の理想と合致するとは限らない。従って「こうあるべき・あるべきでない」こともさまざまなはずである。それを単一のものと措定するところが、まずおかしい。唯一の「べき論」は、「誰かに危険を及ぼさないことを条件に、他者の言動に寛容であるべき」である「べき」であり、セットとして、「当事者の失敗や羞恥心が他者によって溶解される思考」すなわち思いやりがある「べき」だ、という、多くの哲学者が言いまくっているような、まあ当然の結論には、なる。
ということをガメ氏は先の文章で言っているのだが、それさえ分からないのだろうか?分からないだろうな、こいつらは「正しさ」に拘泥しているもんな。彼らはその意味で、「いじめコアグループ」の一員である。無論、芸術に携わる俺が、彼らに同調するはずがない。
ボブ・ロスという画家がいた。一見雑な塗り方をして、最後には、あっと驚く風景画に仕上げる名人であった。風体、言辞を含めて、大好きな人物なのだが、彼はよく
「失敗なんかないんですよぉー。失敗は素敵なハプニングなんです」
と言っていた。ミュージシャンである今、この言葉の意味を、俺は体感を以て理解している。では、ミュージシャンでない者は体感できないかと言えば、できる。やれば、できる。それは、思考する勇気、決断の問題だ。
このふたつの要素を合わせて、俺は「自由」と呼んでいる。
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