デス・レター(Civil Disobedience、あるいはライブハウスの持ち時間について)
長々としたタイトルで恐縮だが、両者は、俺の中ではひとつづきになっている。どちらもSNS上ではホットなトピックなので、周知の諸兄もいるだろう。身近なところから始めよう。
ライブハウスの、数バンド集まってのイベントでは必ず、バンド当たりの演奏時間(「持ち時間」)があるのだが、俺はこれを「規則」だと思ったことがない。だが、にもかかわらず俺は、自分の持ち時間を破ったことはないし、持ち時間内で終わらせようという意識を常に、持っている。ましてや、30分も40分も超過しようとは思いもしない。なぜか。
それは、共演するほかのバンドに対する敬意があるからだ。ひどい出来のバンド、全く好みでもないバンドであっても、それは俺の趣味の問題。演奏する人々には、初顔合わせの人であればなおさら、一定の敬意を持つべきだし、それが若手なら、思いやりをかけてあげないと。
俺が主催するイベントにおいても、タイムテーブルとは単純に、終演時刻の設定から始まる逆算と按分の結果に過ぎないし、出演者たちに、「これは規則だから」と言った覚えもない。俺は、出てくれる人々にまずは、全幅の信頼を措く。その信頼とは、彼らの中に、英語で言うintegrity(誠実さと思いやりが合わさったような意味か)があることを疑わないということだ。
規則とは、マナーとは、その当事者にintegrityがあることを前提とした、念押しに過ぎない。だから、自堕落なものが、イベントで演奏した時、共演者は、その自堕落を軽蔑する。規則を破ったことを軽蔑するのではない。
これをちょっと拡大してみよう。
伊藤詩織さんのBlack Box Diariesは、聞くも鬱々とした話である。朦朧とした伊藤さんをホテルに連れ込むシーンは、俺も見たが、嫌になった。でも見るべきだと思っている。さて、この映画の上映に際し、無許可で本編に使われた人々が苦情を寄せていて、彼女の弁護士までが苦痛を訴えていると聞く。そりゃあそうだろう。そうだろうが、それで、今、彼らに、伊藤さんのごとき堪えられない苦痛を上回る苦痛があったか。というより、こう言ったほうがいいかな。彼らは、伊藤さんの苦難に思いをいたし、彼女に誠実に対峙したうえで、苦情を申し立てたのか、と。自分が受けた精神的苦痛に数倍する苦痛を、伊藤さんは受けた。そのことを重く見て、自分の苦痛は何のこともない、彼女の映画の上映を手助けする、という気にならなかったとしたら、苦情を訴える人々にintegrityは、あったといえるのだろうか?
バカ左翼はここで、人権人権平等平等と叫ぶだろう。だが、実際にレイプされた方の人権と、まだ起こってもいないことに対する不安を訴える人の人権と、どちらが重大事であるか?他者への敬意と誠実と思いやりを持っていないのは、どちらだ?俺は、伊藤さんを難じる人々と、それをあおるバカ左翼の心に、「まず、規則ありき」「ゆがんだ平等」「うわべだけ共産主義」を見る。すなわち、同調圧力である。
俺は、ことあるごとに「横紙破り」と言ってきたが、こんなもの、横紙でも破りでも何でもない。哀しい人に寄り添う、傷ついた人の手当てをしてあげる、こんな簡単なことがなぜ、できないのか。流血した人を病院まで負ぶって運ぶ時、自分の衣服についた血を、「汚れたから弁償しろ」と流血した人に言う、そんなことを、この人たちはしている。
東日本大震災の時、都心から歩いて帰る道すがら、俺は、大画面TVがロビーにおいてあるホテルに、状況を知ろうと思って立ち寄った。すると、ホテルの従業員は、「ここはお泊りのお客様専用の待避所なので、ご遠慮願います」と言いやがった。俺は、この言葉を絶対に忘れない。そして、この言葉をまるで複写したような出来事が、今もなお、起こっている。