投影説と感受性理論
こんばんは。みやてつです。今日からぼちぼちお勉強したことをnoteに書いていくやつをやりたいと思います。
第一回は佐藤岳詩『メタ倫理学入門』第6章の投影説と感受性理論について解説した部分についてのまとめと感想です。
以下、本の内容のまとめと私の感想という構成になります(こういう媒体において引用の作法とかって、そもそも売り物の内容を一部であれ外に出すことも含めて、どの程度気にするべきなんでしょうか)
・投影説とは
投影説とは道徳非実在論の主張を若干弱めて実在論に近づいた、準実在論に分類される説で「価値は世界の側に本当に実在するわけではなく、私たちの価値観の投影によって世界にあるように見えている」とする考え方です。価値観の投影は単に感情のようなコロコロ変わるものを反映するわけではなく、「深い倫理的コミットメントに基づく高階の態度が投影される」のでなんでもござれにはならず、道徳としての安定性が保たれるというのが投影説の建てつけです。
・投影説への批判
投影説への批判は主に三つあります
①投影説において道徳は実在している時と全く同じ機能を果たすわけではない
②価値判断に関する適合の向き(direction of fit)が「私」→「世界」となってしまう
③投影される態度の種類には限りがあって、価値の細やかな違いや道徳をめぐる言葉遣いの微妙な違いを説明できない
これに対する投影説の応答が成功しているかは別として、これらの批判はどれも実在論者の立場から行われていることに注意が必要ではないでしょうか。理由は感受性理論を検討することで理解できると思います。
・感受性理論とは
感受性理論とは「道徳的に善いものとは、一定の道徳的感覚という感受性を持った人が、一定の状況下で善いと判断する事柄である」とする理論です。初学者に解説するために書いているわけではないので、細かい説明は割愛します。
・感受性理論批判
感受性理論がまず問われるのは、感受性理論において感じ取られるのは「道徳的価値」か「自然的な事実」かという問題です。仮に道徳的価値が感じ取られているとすると、道徳的価値の存在自体が感受性に左右されるという感受性理論の核心的な主張と矛盾してしまいます。そこで自然的な事実を感じ取っているのだとすると、今度は事実と規範の架橋が不明確になり、自然主義的誤謬を犯しているのではという疑問が浮上します。
・マクダウェルの反論
感受性理論を提唱したマクダウェルは「生活世界(Lebenswelt)」という概念を持ち出してこの自然主義的誤謬ではという批判に応答します。生活世界とは言語学が明らかにする、私たちの思考の言語規定性と同様の枠組みを取り、私達が完全に主観的に創造できるものでもなければ、完全に客観的に実在するものでもない我々の世界把握の規準となっているものを指します。この規準が背景となって私たちは特定の事実のうちに価値を見て取ることが可能になります。
・マクダウェル批判
生活世界論に対する批判は色々ありますが、一つ取り上げるとすると、完全に客観的に実在するものでもない規準に基づいて価値を感じ取るならばそれは非実在論ではないのかという点です。感受性理論は価値の主観的側面を強調しすぎているという批判ですね。
・どっちが強いのか
両説のポイントを整理したので、私が考えたことをメモしておきます。まず、投影説に対する批判は実在論の立場から為された者でした。投影説は非実在論に立脚する議論なので要は敵から撃たれているということですね。これに対する投影説の応答は、一つはより実在論に接近して、価値はあたかも実在と同じように振る舞うのだから安定性などに問題は生じないとするものです。しかし、これにはそこまで妥協したら実在論じゃんという批判が返ってくることになります。しかし、この戦略を採らずに批判は全て実在論の立場からなされているものであり、実在論として十分でないという批判は意味がないとすることもできます。
これに対して、実在論に立脚するマクダウェルの感受性理論への批判は価値の主観的側面を強調しすぎていて非実在論になっているのではというものでした。つまり、感受性理論は身内から撃たれていることになるわけです。これでは、投影説が取った敵からの批判を無意味だと一蹴する戦略は取れません。この点において、投影説は感受性理論に対して一日の長があるのではないかというのが今日考えたことになります。
もちろん、ここではウィギンズの感受性理論は検討していないので、感受性理論全体にクリティカルヒットする話かは分かりませんが、強い実在論/非実在論ではない「第三の立場」を検討するにあたって一つ注意すべきポイントなのかもしれません。
おやすみなさい