きょうをささげる
きょうをささげる祈り
主イエスよ
きょう一日の祈りと働き
喜びと苦しみのすべてを
教皇と日本の教会の意向に合わせて
おささげします
母なるマリアよ
このささげものが
イエスのみ心にかなうものとなるよう
とりなしてください
「祈祷の使徒」の「きょうをささげる」という祈り。19世紀にフランスで「ささげ」運動が起こりました。それは 「一日の始まりの時に、神とそして出会う人々に きょうのあなたをささげる」というものです。
元気でバリバリ動ける時、才能に溢れ活力に満たされる時、いくらでもなんでもお捧げしますという気持ちになるのかもしれない。
そこにいること、ただそれしかできない自分という時には、一体自分に何が捧げられるというのだろうと思った。
忙しくしている時や、元気な時は、祈っていてもどこかせわしなく、時間や祈りの言葉が早く流れていくのを心のどこかで待っているような、不信心な自分がいることに気づく。
その気づきは、そこにいることしかできない不甲斐ない自分を生きている最中においてだ。
「きょう一日の祈りと働き、喜びと苦しみのすべてを」の祈りの言葉の「苦しみ」を元気な時は気づきもしなければ味わうこともできないように思うと同時に、「苦しみ」がささげものとして入っていることのありがたみに気付かされる。そして、大きな慰めを得る。「働きと喜び」だけが捧げ物ではないし、そればかりに意識がいく自分ってどうなんだろうって、立ち止まった時にしか考えられないようにも思うのです。
もちろん「苦しみ」がささげものであることは、その人を苦しみに留め置くという意味ではない。どんな状況でも、たとえ「苦しみ」しか自分にない時にでも、さらにいえば八木重吉のように苦しみの最中にあっては「ただ生きる」だけだったとしても、その「ただ生きる」という苦しみをおささげするがゆえに、神さまは優しく自分の価値を見出させてくださる。僕がどんな状態であったとしても、神さまは僕を掌に刻んでくださることを思い起こすことができます。
苦しみそのものには意味はありません。ささげるという、自分自身の苦しみへのあり方を自由に決めることにより、自分の価値を受容し、次の日へとつながっていくことができる。そんなふうに思うのです。
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