さいわいなるかな、貧しい人。神の国は、あなたのもの。
イクトゥス・ミニストリーが大事するあり方を記事にした時に紹介した図。この「周辺」の一つとして「性的少数者とその家族・友人」があると考えています。一つの徴。誰も排除されず、教会のうちに固く留まり、太陽が必ず東から登るように、周辺で神と出会うのです。そして皆が解放されます。
この「周辺」わたし(あなた)が心の中に隠し持つ苦しみ、憎しみ、醜さ、傷、罪の傾きです。それらを神様に隠しもつ以上神様と出会うことは無理ですが、神様に入っていただく時、私たちは自分の弱さを心底知ります。その弱さこそが物理的困窮にある周辺の人と共鳴し、神からの解放にあずかるのです。
私には関係ない、難しくてよくわからない、こんな単純なものじゃない、神父じゃないのに何言っているの、という方は僕的には残念です。せっかく幼子イエスは弱い姿、話すことすらできない姿で、マリアとヨゼフの助けを受けるために生まれてこられたのに。その弱さ、助け合わなければ死ぬ存在が、神なのに。
イエスは周辺中の周辺に生まれた非力な存在。非力な存在になってこの世に現れたのではなく、非力な存在なのです。
自分の栄華は神の栄光のうつし、祝福のしるしだという人には都合の悪い話でしょう。キリスト教を変質させてはならないんです。変質の歴史から脱却する(変容に与る)ため、各時代に非力なイエスに空の手でついていく聖人たちが起こされているのに、またそれを無視して都合よく利用していく。空しい。
「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人のもの」(マタイ5)。「自分の弱さを心底知る」状態が「霊において貧しい」状態です。その人たちは「マカリオイ」幸い、神からの力がある、神に近いとこにいる、と呼ばれ、天の国(神の思いのみ行われる関係性)は「今ああなたのもの」だとイエスは言います。
「幸いなるかな……」で始まる八つの言葉をカトリック教会では真福八端と呼びます。イエスは一つめと八つ目は現在形で「天の国は『いま』その人のものだ」と言います。間に列挙された六つは未来完了。自分の弱さや過ちや心底見つめ直さない人は神から遠い。苦しい思いをするのはその人本人なのです。