自分自身との、そして神との和解
ゆるしの秘跡(というか秘跡全体なのですが)に関する連ツイをまとめてみました。一部加筆。
ゆるしの秘跡は、秘跡を与える権能は教会にあるけれど、ゆるすのは神なんだよね。あれ、司祭がゆるしてると思ってるカトリック信者も多いんだけどさ、違うのですよ(笑)。
「全能の神、あわれみ深い父は、御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち帰らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通してあなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。わたしは、父と子と聖霊のみ名によって+あなたの罪をゆるします。」これがゆるしの式文。
大事なのは前半部分の「御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち帰らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。」というところ。これは神の救済史の中でイエズス・キリストの十字架と復活に結ばれ聖霊の助けによってわたしたちも神に立ち帰ることを神はわたしたちに願っているということ。
ゆるしに必要とされてきた「回心」と訳されてきたメタノイアは方向を表すメタと心を意味するヌースでできています。神様にむかって心を回し神様の心へわたしたちの心を向けることこそが回心であり和解です。教会はそれをゆるしと呼びます。フランシスコ会の本田神父様はメタノイアを「低みに立ってみなおす」と訳しています。「低み」とは神の視座を表す具体的な表現であり、他の聖書の箇所をみても神の選びは一貫して「弱さ」「貧しさ」「小さくされた」「抑圧」にあると本田師は言います。
「わたしは、父と子と聖霊のみ名によって+あなたの罪をゆるします。」って司祭が言っているじゃないかとお思いの方もあるかもしれません。これは司祭の位階的(機能的)司祭職といって神のゆるしを教会を通して信者へと与える「道具」であることを意味します。
司祭の権能は本来司教に与えられ教会に託された神の救済の業を信者に教え治める教導権です。和解は神の意思であり、ご聖体はイエズス様の自己譲渡であることを忘れないでいたいです。自分自身と、神と、人々と和解し、ご聖体に養われ、聖母の扶けを頂きこの世を共に生きることがカトリック信仰ですね。福音に信頼をこめてあゆみを起こしたいものです。
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