聖体(感謝の祭儀)は単なる礼拝でありません。行動することです。
「アウトリーチ」へのジョン・F・バルドビン神父(イエズス会)の寄稿「The Eucharist is not just about adoration. It’s about action.(聖体(感謝の祭儀)は単なる礼拝でありません。行動することです。)」の日本私訳です。
バルドヴィン神父はボストン大学クラフ神学司牧神学校で典礼と秘跡について教えています。
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写真提供:iStock/Sidney de Almeida
(ジェームス・マーティン神父(イエズス会)より快諾いただいています。)
今月初め、インディアナポリスで5日間にわたって開催され、7月21日に閉幕した「全国聖体大会」には、数千人のカトリック信者が参加した。全米の小教区やその他のカトリック施設は、米国司教団によって開始された3年間の聖体大会の最終段階を推進するために、成人教育プログラムを主催した。
聖体大会そのものは、正当な批判にさらされているが、聖体の秘跡への深い信仰ゆえに教会にとどまるLGBTQのカトリック信者は、イエスとともに現存することを切望する信者の証しとなっている。
聖体大会の主要な中心テーマは「真の現存」であり、特に聖体礼拝である。聖体顕示の写真があふれている。残念なことに、このように聖体の要素における主の現存を過度に強調することは、聖体が第一義的には出来事であり、行為であるという事実を覆い隠してしまう。
聖体は名詞としてよりも動詞として考えた方がよい。公正を期すために、聖体大会キャンペーンは聖体の他の側面も含んでいるが、礼拝が支配的であるように思われる。
聖体は名詞としてよりも、動詞として考えた方がいい。
会議の演説者は概ね、聖体祭儀におけるキリストの真の存在の複数の側面、すなわち、みことばの宣教、奉仕者、会衆、そして主の聖別された体と血を肯定するかわりに、第2バチカン公会議以前の神学を支持する人々でった。
何百万ドルもかけて行われた復興運動、とりわけ聖体大会は、典礼の説教、音楽、養成全般を向上させるプログラムに費やした方がはるかに良かったように思われる。
2021年、米国カトリック司教協議会は司牧書簡 「教会生活における聖体の神秘(The Mystery of the Eucharist in the Life of the Church) 」を発表した。この文書は2つの要因に触発されたものである。1つ目は、コロナの流行が衰える中、カトリック信者に直接ミサに戻るよう促す懸念だった。
もう1つは、2019年に行われた世論調査で、米国のカトリック信者の3分の1しか、聖別された聖体におけるキリストの真の現存(実体変化=transubstantiation)に関する教会の教えを知っていないという結果が出たことである。( 注意すべき点が一つある: この調査結果では、ミサに頻繁に出席することと、真の現存に対する信仰との間には、より高い相関関係があることが示されている)。
司教団の文書をめぐる話題の多くは、一部の司教団がこの文書を用いて、妊娠中絶の容認や同性婚を支持する政治家に対して聖体拝領の拒否を勧告するのではないかという噂に関するものであった。実際には、この文書の最終版は、公然と重大な罪を犯し続けている人々に対する聖体拝領拒否の制限(教会法第915条)を改めて規定したに過ぎない。
キリストはわたしたちの真のいのちの源であり、わたしたちは聖体祭儀を祝うことによってキリストを体験し、キリストを切実に求める世界において、キリストの具現化された存在となるのである。
2022年にサンフランシスコのサルバトーレ・J・コルディレオーネ大司教がナンシー・ペロシ下院議長(当時)に対して行ったように、各司教は自由にこの公準を適用することができる。この文書は、特に新境地を開くものではなかった。司教団は、神学者でアメリカ・カトリック大学教授のケビン・W・アーウィン司教の鋭く批判的な分析が、第二バチカン公会議以前に書かれたものであることに満足していたようだ。
実のところ、司教団の文書は聖体礼拝と聖体拝領の資格についてかなりのスペースを費やしている。
なぜこのことがOutreachの読者の興味を引くの でしょうか?多くのLGBTQカトリック信者が、自分たちを拒絶し、疎外し続ける教会にとどまる大きな理由のひとつを、聖体に見出しているように私には思えます。確かに、マリアや聖人への信心、家族の伝統、道徳的な信念など、LGBTQカトリック信者が惹かれるカトリックの側面は他にもたくさんあります。
私は、正教会や多くの聖公会やルター派など、他のキリスト教徒における聖体祭儀・聖餐式の重要性や中心性を軽視するつもりはない。しかし、前述のピュー研究所による調査にもかかわらず、カトリック信者は、聖体におけるキリストの真の現存を、まさに秘跡的で具体的な方法で、主が私たちの間におられることを選んでおられるという慰めと確信の大きな源だと感じているのである。
多くのLGBTQカトリック信者は、キリストがこのような美しい方法で私たちにご自身を与えてくださることが、キリストのような生き方をするためのきっかけになるという事実を直感しているのではないでしょうか。結局のところ、中世の神学者たちは、聖体の最終的な目的は真の現存にあるのではなく、むしろ主との一体化、主における一体化であると認識していたのである。聖パウロがコリントの信徒たちに対して、貧しい人たちを排除するような祭儀を行うことを非難していることを思い出してください( コリントの信徒への手紙一 11章)。
LGBTQカトリック信者は、お互いにだけでなく、教会全体とのキリストにおける交わりを渇望していると私は固く信じている。
キリストの体を認めないというのは、教会を構成するキリストの体を意味する。共同体とは、キリストの体と血を分かち合うことを実現するものである。聖アウグスティヌスは、新しく洗礼を受けた人たちに対する説教の中で、こう述べている: 「したがって、あなた方がキリストの体であり肢体であるならば、主の食卓に置かれるのはあなた方自身の神秘である!あなたが受け取っているのは、あなた自身の神秘なのです!」
LGBTQカトリック信者は、お互いにだけではなく、教会全体の、全世界のため一致の秘跡となるべき教会との、キリストにおける交わりを渇望していると、私は固く信じています。キリストはわたしたちの真のいのちの源であり、わたしたちは聖体祭儀を祝うことによってキリストを体験し、キリストを切実に求める世界において、キリストの具現化された存在となるのである。
もし「全米聖体大会」が、私たち全員をそのような存在に、またそのような存在となるよう鼓舞するのであれば、それは名ばかりの復興ではなく、真実の復興となることでしょう。