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無原罪の聖マリアの祭日
無原罪の御宿りの祭日おめでとうございます。
無原罪の恵みはマリア自身のいさおしによらず御子の十字架の恵みにより、マリアが存在する瞬間にまで遡及してもたらされたもの。被昇天と無原罪は聖なる教会、ひいては信者一人一人の前表。
無原罪の集会祈願の結びに次のような祈願文がある。
「聖マリアの取り次ぎを求めて祈ります。御子の十字架の恵みによって、聖マリアがすべての汚れを免れたように、わたしたちも清いものとなり、あなたのもとに近づくことができますように」
この汚れ(macula originalis)はいわば原罪で、マリアがそれから免れてある清いとは対義的なものではなく汚れがない状態(macula originalis non est)を意味する。わたしたちが考える、汚れや清さはあまりにもちっぽけで限定的ではないだろうか。この汚れが全くない状態こそ人間の本来のあり様だ。
読書課で読まれる「毎日の読書」第一巻141ページには無原罪についてこう説明されている。
「マリアは神の特別な恵みによって、その存在の最初の瞬間から、あらゆる罪から守られていた。これは、マリアが神の母であることに基づいている。被昇天と同様、無原罪の宿りにおいても、マリアは、しみもしわも汚れもない聖なる教会(エフェソ5・27参照)の前表である」
冒頭で「マリア自身のいさおしによらず御子の十字架の恵みにより、マリアが存在する瞬間にまで遡及してもたらされたもの」と記した。
「神の特別な恵み」は受肉と十字架に決定的に現されます。イエスは神の自己開示であり、神の自己開示は受肉に始まり十字架で完全に現されます。その受肉と十字架に緊密に結ばれることにより、神に近づき、人間の本来の姿へ回帰していくことが、カトリック教会の一つの旅と言うことができる。
この人間の本質的で本来のあり様がマリアのうちに完全に現され、それを前表と呼ぶ。キリストの十字架は完全な神の自己開示である。神の恵みは十字架において現され、わたしたちはマリアと共に緊密にキリストに結ばれることにより神にむかっていく。神へと近づいていくのだ。
聖母は、無原罪で生まれてこようとも、そうでなくとも、受肉と十字架において他の誰よりも緊密にイエスに結ばれ続けた結果、神に近づき、人間本来のあり様である無原罪に達したと僕は思う。それを先に「御子の十字架の恵みにより、マリアが存在する瞬間にまで遡及してもたらされた」のは神の愛のご計画としか言いようがないようにも思うのだ。この教義決定がなされるまでに議論されたベースにあるものは論理的に説明できないという立場と、神の揺るぎない無限の愛は十字架において完全に開示されたという愛の立場に別れたという。
キリストについて聖書の記者はこう報告している。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブ4・15)。
聖母に望みをかけること、聖母のうちに神の人間への働きの全てがなされたことに信頼し、聖母に取り次ぎを願い、聖母と共に祈ることはカトリック信者の霊的呼吸だ。
「マリア様は無原罪であるから」というのを理由にマリア様の信仰に生きることはできないと言うことは謙遜ではない。「あなたは頭がいいから」「あなたは守られているから」「あなたは頭が悪いから」「あなたは私とは違うから」これらは自分が変わらないままでいる理由となるだろうか。これらは自分が変わらないための言い訳だ。変わろうと、変わるまいと、その人と神との関係であるのに、なぜ言い訳をするのか。変わる恵みを願うことは信仰の根本的な事柄なのではないのか、と不思議に思うことが多々ある。
確かにマリアの信仰は特筆に値するものであり、マリアにおいて神の人間への計画は余す所なく形にされたと教会は言う。特に終末論におけるカトリック者の在り方はマリアのうちにおいて語られる。「星を見てマリアの名を呼ぶ」とは、手の届かない存在に対し嘆願する(そのような時代的理解もあった)のではない。聖母出現に見るマリアの態度は、社会が「とるに足りない」とする者達(弱者や病者や子どもたち)に向けてであり、非常に丁寧で、対して自分の目線よりも下から、相手を尊重する向き合い方であり、それは神のそれを示すのである。
初めの女性(eva)が蛇によって唆されたのに対し、無原罪の女性(ave)は蛇の頭を砕く。マリアへの信頼(聖母崇敬)はカトリック信者の神への親しさと、信頼を十全に表現します。被昇天や無原罪などの教義も、そのような眼差しで向き合うことが大事なのではないだろうか。
わたしたち人間は愛されるために神に造られた。
神の完全な愛の充満を注ぐ相手として造られた。その愛によって人間同士が愛し合うために造られた。聖母マリアのお祝い日はそのことを特に思い起こさせてくれる。聖母の祈りに支えられて、みな一列に手を繋ぎ、神様へ近づく恵みを願いたい。よき無原罪の祭日をお過ごしになり、よきご降誕と新年をお迎えになりますように。
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