生活の只中に生きる小さなラディカルさ
どうもスッと入ってこなかったので、寝る前に今日のミサの福音を読み直した。
洗礼者ヨハネのもとにやってきた群衆の中で、洗礼を受けようとヨハネに教えを求めたのは「徴税人」と「兵士」だった。後ろめたさを抱え生きている人々と言ってもいいのかもしれない。ヨハネは彼らに教えを述べる。ただ、彼らが期待するであろう大仰な内容ではなく、「下着(普段着)を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と、自分の日常を見返し、その中で日々行う小さな回心と決心を勧める。
イエズスさまの教えとヨハネの教えは基本的に同じラインにあると雨宮神父様は指摘する。持っているものを全て売り払ってから自分に従うようにと、その人の日常の中にある神ならぬものとの決別(神に向き直ること)を「あなたに欠けていること」として教える。徴税人については、義とされて(神に向き直って)家に帰ってのはファリサイ派の人ではなく徴税人だと教える。確かに教えは同じラインにある。生活の只中に生きるうちにあるラディカルさではないだろうか。
「待ち望む」彼らの期待に対しヨハネはきっぱりと自分より偉大な方が後から来て「火と聖霊によって洗礼を授ける」と述べている。この「火と聖霊による洗礼」とはなんなのか。正直なところ僕はわからないまま知ろうとしなかった。また、農夫が風によって籾殻を飛ばし、実は倉におさめ、飛ばした籾殻は火にくべられるとは何か、あまり考えたことがなかった。
農夫が実を籾殻と振り分ける「風」は「聖霊」であり、籾殻は「火」にくべられるとは、わたしたちの回心や「義とされる(神に向き直る)」とは、日常を離れたところのものではなく、日常の只中にあって聖霊によりわたしたちの只中におられる神を見えなくさせる遮蔽物を火にくべ、神に向き直るということなのではないか、と思う。
イエズスさまを書物の中や、偉大な宗教的天才という歴史の中に閉じ込めることは、そのまま、わたしたちの日常の只中に共におられる神との遮蔽物となり、イエズスさまとわたしはなんの関係もない間柄になってしまう。
この日常の只中での、神ならぬものへの期待や欲望を、聖霊によって神に向き直らせ、その遮蔽物を淡々と火にくべていくことが、わたしたちが、今日、生きておられるイエズスさまと共に生きていくことを可能にさせるように思う。
火と聖霊による洗礼とは、それを可能にする先行する神の思いであることに一つ気付かされた。
僕は、典礼を味わうことや、典礼について考え実践することが好きなのだと思う。ただ、それは先行する恵みの一つの表れであるのに「僕は知っている」という思いに覆われてしまうことが多々ある。だが、それは、せっかくの神様からの恵みであるのに、僕は、自分でそれを遮蔽物とし、神ならぬものを心に宿してしまっているのかもしれない。
自分は神を知っている。きっと、誰でもそうなのだと思う。でも「あなただけが神を知っているのではない」と指摘してはくれないものだ。「ああ、早く気づいてくれたらいいのに」と思う人はたくさんいると思うが、神ならぬもので心が膨れ上がっている時にはそのことには気づかないように思う。
「火と聖霊による洗礼」それはこの自分の生活の只中で、ちょっとしたことに回心し、決心し、実行することを可能にしてくれる力のように思う。誰も神様の愛なしには愛することはできない。そして、神様は人と人との関係性を通してのみ、その愛を発露させてくださる。神様の愛の小径として、この命を生きたいと思う。ちょっとした回心のお恵みに感謝しながら、大事にするという決心と実行に生活の只中で生きたいと願う。それを愛と呼ぶのだから。