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同性愛者の洗礼の拒否は、相手の命を奪うこと。

継続的な罪という倫理状態を、同性パートナーと共同生活を営む同性愛者の洗礼志願者の洗礼の秘跡障害とするケースについて。

僕は教会法は専門ではなく、教会法的に確実で正しいことは言えない。ただ、長い間心を痛めながら、それは本当に「罪の状態」なのか自問自答してきた。

婚姻の秘跡そのものへの言及は避け、また、貞潔の問題ーそれは婚姻の秘跡を前提としているーを「普遍的」であるとは考えない。どのような原因であれ、違う性的指向を持つ人がこの社会に共存するということは、異性愛は普遍的なものではなく、中止的性的指向でもなくなるり、神の愛の神秘へ招き入れられる一つのかつ重要な中心な一側面もしくは属性となる。したがって自然法を異性愛のみに基づき考えることはできない。普遍性を欠くからだ。よって自然法上の「自然でない」という主張は成り立たないことを明記したい。それを押し除けることは「乱暴」であると言わざるを得ない。性的指向と婚姻の秘跡に対する貞潔の罪はここでは問われなくなる(かなり雑に簡略化しているが)。

罪は、それが継続的であろうとなかろうと、大罪として成り立つには三つの条件がある。一つ、それが罪であることを知っており、二つ、避けることができたにも関わらず、三つ、自ら望んでその罪を自発的に行なった場合に大罪として成立する。

同性パートナーと共同生活を営む同性愛者に対する継続的罪は、同性愛に基づく「性愛行為」が「同棲」により意図的に継続的に行われることにうよる貞潔に背く状態を指す。

共同生活という現実を、どのような眼差しで見ているか透けて見えてきて目眩がする。この「性愛行為の継続的かつ意図的な実行」という視点でしか共同生活を捉えることのできない視点、つまり、性愛行為の遂行を「常に」第一義にする共同生活とは一体どのようなものか。配慮のない、現実味のない、視点だと心が痛い。

共同生活をどのように捉えるかの差異をはっきりさせておく必要があるのかもしれない。また、あえてはっきりさせずに現場の司祭の司牧的配慮のセンスに信頼するか。どちらにせよ簡単に言語化する意味はあるように思う。
共同生活とは、互いの生活、すなわちお互いの命の営みを預かりあうことである。また、婚姻の秘跡の成立と同様に、性愛行為の有無は本人と神しかわからない。また、性愛行為のないパートナーシップを結んでいる人にこれを当てはめるのなら、それはあまりにも一方的すぎで、なおかつ乱暴だ。

この共同生活を根底から支えるものを同性愛者達は「愛」と呼ぶ。皆、そう自認し、他者の目からも明らかである。性的指向を問わず、性愛行為を継続的に行うためだけに人は生活を共にはしない。互いの命に責任をもち、その生活のうちに互いに自分を与え合うために一つとされ、互いの命を守る営みとして互いを育むのである。

婚姻との本質的な一致や違いはともかく、愛に基づく互いの命を預かりあう営みを罪と呼ぶこと、それは相応しいことであろうか。性愛行為の非継続化のため、一つとされた生活の基盤に分断を与えることは、相応しいことなのだろうか。自分の救霊のために、生活の基盤を捨て、パートナーを路頭に迷わせることが、洗礼の秘跡の本質を表しているだろうか。決してそうとは言えないと僕は思うのだ。

「それは愛ではない」と教会は指摘するだろうか。司祭は判断するだろうか。倫理状態によらず同性パートナーもしくは婚姻の秘跡に依らないパートナーに祝福を与えても良いと教会が許しの文書をだしたこの時代に、それはないと僕は信じたい。

もし、「それは愛ではない」というのなら、僕は「あなたは愛を知らない」と嘆きながらも、言わざるを得ないのである。

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