『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』という本の書評があまりにもおかしい件
ある書評を手にしてしまった。
『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』という本の書評。他所さんの批評・非難はするものじゃないけどあまりにも酷く多方面に気の毒になった。
専門用語の連続なタイトルで、なんことやらさっぱりという感じなのですが、僕的には何を言っているのか興味ありなわけです。
洗礼を受けていない人はなぜ聖餐のパンとブドー酒を陪餐(もらえない)のか、という話なのだけど、教会など関係ない多くの方々にしてみればなんともどうでも良い話題であり、そのどうでもいいような話を重箱の隅をつつくように揚げ足を取り合っている一部の人々がそのやり取りの中で出版している本なわけです。出版社は銀座に本社ビルのある教文館。書いた人は東京神学大学の名誉教授で、書評してるひとはそこの教授。もー、それだけでおなかいっぱい。
一生懸命どれだけこの本がすばらしいか、いかに未受洗者の陪餐が「教会的」ではないかを書きまくってるのですが、僕は疑問を通り越えて滑稽にしか思えて仕方がない。申し訳ないが。
「日本基督教団という、日本のプロテスタント最大の教会の中で、この二十年ほどの間、「未受洗者の陪餐」という、きわめて特殊で問題に満ちた実践と神学が一部の人々によって主張されてきました。」
このように書き出されているのだけど、そもそも書評のくせに自分が書いていること自体が矛盾だらけではないか。きわめて特殊で問題にみちている。プロテスタントをやめて教会に権威を持たせてそれをハンドルしたいという話ですよね?
そもそも、いちいち「プロテスタント最大の」だなんて書く必要はまったくないわけだし、人数や教会数が最大でも一枚岩でもなんでもなけりゃ、表面 上一枚岩だと主張しているわけでもない「各個教会の集合体」を「教会」と呼ぶのはおかしい。しかも集合されたことの意味の引き受け自体ままならないのに。 とにかくそれは監督制の発想で、日本キリスト教団には旧教派の括りはあるものの、また、人事の上で実質名残やパワーバランスはあるものの、教団そのものを 「教会」と呼ぶのは変だ。変だよ。各個教会と地方教会とその全体すべてを教会と呼ぶのはカトリックだけだし。正教も聖公会も教区を超えて教会という発想はあるが、自治教会だからまとめたところで国単位だろうし。いろんな思惑と整理されていない神学用語や概念が腸捻転起こしているみたいだ。
僕個人は、カトリック教会(+聖公会)の人だから、未受洗者の拝領や陪餐が可能か否かというより「その行為自体に意味がない」として扱うより他ない。秘跡は授ける方も受ける側も「秘跡を理解し受ける意向」がなければその秘跡は有効だが違法とされる。なぜならば「意向」だけでなくカトリックの秘跡理解の一つに「秘跡は、それを受ける者に対し、カトリック教会の成員として義化され聖性へと向かう『義務』を生じさせる」ものである故に秘跡の線上性に従って行われるべきものである。カトリック教会においては、教会法的にも教義学(秘跡論)的にも、受洗が資格の問題ではなく、むしろ「罪があるかどうか(成聖の恩恵の欠如)」が資格の問題とされる。秘跡がもたらす性質のゆえの問題である(聖餐論)。
だが、いわゆる「プロテスタント教会」の人は、カトリック、正教、聖公会とは違う伝統、違う出発点、違う変遷をたどってきているわけだし、それこ そがアイデンティティであり、教会形成なのだから、未受洗者の陪餐を認める人々やその実践を裏付ける神学があってもまったく問題ないし、まったく特殊でも なんでもないことなのではないだろうか?
この書評の最後に問題点が三つに絞られているのだけれど、これがまた決定的。
①「意味さえ分かればよい」という聖餐理解。
②聖餐の秘義性を抹殺したこと。
③実在のキリスト、実体のあるキリストを問題としなくなったこと。
この教授さん、宗旨変えして上智にでも行けばいいのに(笑)。というか、こんな矛盾だらけのこと書評で書くなんて、ちょっと頭悪い。もっと聖餐論勉強すべきです。
この挙げられた三点が相互に齟齬をきたしているんだけど、そんな揚げ足取りは先の教会の話だけでやめておき、そもそも「これぞプロテスタント神学」なんてあ りゃしないこと、そしてそれこそが「プロテスタント教会」の魅力と活力なんだってことをすっかりわすれてしまっている。カトリックの真似事みたいではないかね。というか、この本を根拠に改革長老派に他の旧教派を抱きこむつもりではなかろうか。
洗礼と聖餐の関係性をあれこれ言っているけど、ぶっちゃけその二つのサクラメント (そもそも複数だからサクラメントゥムなんだが)を「神の恵みの手段」というのだけど、それならどちらが先行してよいだろうに。ついでに言ってし まえば、神の呼びかけへの応答と罪の赦しの洗礼に浴したものだけに陪餐を許すとはなんともけち臭い神ではないか。しかも未受洗者が礼拝にきたら何も与えず に献金だけはちゃっかりもらったくらいにして。どこが恵みなんだか。アホくさい。
そもそもサクラメントゥムを「神の恵みの手段」という定義を教団の教会すべてが受け入れて告白しているのだろうか?ふたつのサクラメントがある、ということだけじゃないのだろうか?いつのまにこれを摩り替えたのか経過を読み返したいものだ。
カトリック教会では秘蹟(サクラメントゥム)を「目に見えない神の恵みの、目に見える有効なしるし」と教えている。バルトは真逆のことを言っているのだがどうなのだろうか、この教授さん的に。僕には、カトリックや聖公会の三職制的ドグマの焼きまわしなのじゃなかろうか?と思える。そうなら、恵みはどこまでも追いかけてくるし、どこまでも先行していることをお忘れなのではないだろうか?
先にも述べたが、洗礼を受けていないから聖体をやならない、ではなく、洗礼を受けていない人に、カトリック信者としての義務(これを恵みの応答というのが)を伴わせる聖体を差し上げるわけ にはいかない、なぜならその意思を本人も両親も表明し希望していないから、と言い切ってしまえばよい。そして、たとえ未受洗者が聖体を受けても、意思のないところでは有効ではない、と言い切ってしまえばよい。この教授さんがた、なぜ、受け手の資質にそうこだわるのだろ?人間はそんなに強くも、偉くもないん だよ。
礼拝の招かれた人々すべてに、神の恵みを分かりやすく具現化した伝統を、なぜ分かち合わないのだろうか?それなら、「あなたは招かれていない」と本当は区別している心のうちをぶちまけてしまえばいいのに。それが、「伝統的キリスト教信仰」なら。
もっとも、あくまでも未受洗者の陪餐を拒み、さらにそれは未受洗者に罪を犯させるという欺瞞に満ちた、僕に言わせればまったくもってプリミティブ で浅読みな聖書理解(本当に理解してんのか?)を主張する人々もいるから、まだましなほうか?比較の問題ではないけど。それにしても根拠が薄く、矛盾に満ちている。だいたい「プロテスタント教会」って言ってるんだから、それ自体無理なんだから。気づけよと思う。
ついでに言えば、いわゆる「プロテスタント教会」が洗礼と聖餐をサクラメント(しつこいけどサクラメントゥムなんだけどさ)と主張するのは、史的イエスの発言に則ってということ、というか中世プロテスタント教会(って変な言い方だね)が信じてきたことなんだろうけど、そもそもがその発言そのもの に、史的イエスの発言としての信憑性があるかどうかを批判しなければならない。もし信憑性がないのなら、なぜこの二つの儀式・行為をサクラメントと呼ぶの か、なぜその実践を営んできたのか、そこから考えなければならないのではないのかな。
日本キリスト教団の神学って大丈夫なのかと他人事ながら思ってしまう書評です。こんなものありえない。
プロテスタント神学はモダニズム以降の相対化やさまざまな福音理解と聖書解釈法による開きが可能なところが一番の魅力だ。何か問題が提起された時のレスポンスの速さもそうだろう。その開きをどうか閉じないでいただきたいし、十分でない聖餐論理解のままカトリックから「ニュアンス」を引っ張るのもやめていただきたい。齟齬をきたしますよ。
書評の続き。
僕から見て思うことをぶっちゃけてしまえば、「日本基督教団」の連合長老会の諸先生方は、どうも教団をカトリックや聖公会のそれと同視し、自分たちを「聖 なる公会」……すなわち聖なるカトリック(公=普遍)の教会……と規定したいご様子。それはそれで僕は全然興味がないのですね。その教会が目に見えて栄え ようと栄えまいと。
ただ、戦争によって無理やり合同させられたのを機に一つの合同教会として自己規定しようとしてきている日本キリスト教団には、いろいろな教会が あって然りだと思うのです。じゃないと合同教会の意味がないわけで。だから、そこのところをよーーーーーくご自分で吟味なさることが大事なのではないで しょうか。それが福音の本質か、否か。
いかに教団に忠実な教師と信徒を育成しても、権威にこだわっている自分たちの姿を忘れて権利を振りかざすのはあまりにもイエスの視点とはずれすぎている。
教会の礼拝や諸活動から青年が離れているというのはどの教派でも同じことのように思います。50年100年先、未受洗者の陪餐うんぬん言う前に現 行の「教会」が存続しているのだろうか?と思うわけです。もっとも聖ザビエルの遺言どおり長年のイエズス会の英知を集結させ四谷という地の利をフルに活用 したカトリック麹町聖イグナチオ教会は別かもしれませんが(苦笑)。
じゃあ、若者は教会にまったくいないのか、といえばそうではない。福音派と呼ばれる教会やペンテコスタルな教会、また表現はまったく違いますが、テゼの集会には若者があふれています。それはなぜだろうか?
実直にまじめに福音をのべ伝え、典礼を守ってきても礼拝参加者は少ない。礼拝・ミサに参加することが勤めだと思っている世代やそのものが好きな人 でないといやしない。では礼拝やミサを若者向けに変えればよいのか?そうでもない。けっしてそうではない。オプションにすぎない。
必要なのは、泥臭いほどにイエスに出会い続けていくこと。み言葉からイエスは何を言い、行い、示すのか。そしてイエスのうちに完全に示された神の 愛、存在、意志はなんなのかをしっかり学んでいく共同体であること。それも格式ばってではなく、襟をただすわけでもなく、飯くいながらでもというくらいの フランクさでイエスについて、泥臭く、熱く語る。語りあう。
そして、和解のと一致のコミュニティであること。それがゴスペルやワーシップといった歌を用いた一体感でもよし、テゼのような短い歌を覚えて何回も歌うという神と向き合う共同体であることをだんだんと自覚させる、自覚することのできる共同体であるということ。
現代社会、もちろん自分自身を含め、他者はおろか自分自身との和解すらままならない世の中だと思います。教育か過去の体験からかセルフイメージは とても低く、そのことにも無自覚で、心はいつも硬直した状態のままという人が多いように思います。いや、そのことにすら気づくチャンスもないまますごして いるというか……。
教会共同体は和解と一致の共同体でなければなりません。それは教会共同体に身の丈をあわせて自分や他者と和解したつもりになるのではなく、自分自 身の内側へと長く続いている和解の道をシンプルにイエスと共に歩む旅路を選び取った人々の共同体であり、その教会共同体で祝われ捧げられる礼拝やミサのな かで、ふたたびみ言葉やみ言葉の具現化である聖餐からまた旅へと送り出される力を得ることが必要なのだと思います。その自分が社会へと送り出されていくと いうダイナミックな、もちろん完璧ではなくとも、何回でも、何回でも、躓いては立ち上がり、倒れてしまっても起き上がり、旅へと出て行くその生き方こそ が、福音宣教の初めなのではないか、と思うわけです。
自分にとってイエスはかけがえのない存在であり、イエスの行き方を自分の生き方の指針としていく、いわば生き方の問題として捉えなおしていくと き、礼拝・ミサがもっと活き活きとしたものであると感じられるようになり、自分自身がガードしてきたものを手放していく旅路の中で神の愛やそのなさりかた がじっくりとしみこんでくるのではないだろうか。
傷のない人間なんていない。しかもその傷を庇おうとしない人間などいない。でもその傷からこそそういった生き方の発想の転換(回心)と、日々イエ スに出会いなおし失敗したり成功したりの繰り返しのなか同じく信仰や価値観を共有する仲間に支えられ立ち上がる力をもらい(聖化)、その体験を通して社会 の傷に神の愛が降り注ぐための存在として送り出されていくのだと、僕は思う。いわゆる右寄りの発言も左よりのそれも、「キリスト者として**」的なダイレ クトな発想というか発言になりやすいのだけれど、一つ一つのプロセスをきちっと経なければ、組織に身の丈をあわせる窮屈な思いか、思想のすり替えにいとも 簡単になってしまうことに、気をつけなければならないのではないか、と思ったりしている。
だから、未受洗者の陪餐が許されるか否かということを考える前に、もっとすることがあるだろ?と思うわけです。聖餐論研究に生涯を捧げてきたどこ ぞのおっさんに新しい実践に生きようとしているキリスト者共同体の主張を論破されることを期待する件の書評著者も、もっとやらなきゃいけない違うことある だろ、と思うわけです。パウロのように寝ても冷めてもキリストというのはなんか格好悪いというか気恥ずかしいように思う、でも、そうじゃなきゃただの組織 の沽券争いだもの。そんな組織、消えてなくなっていっても当たり前だよ。
大切なことはそんなには多くない。僕はそう思うのだがな……。
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこ の愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、 わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が 世々限りなくありますように、アーメン。
(エフェソの信徒への手紙3章14-20節)
May 11, 2009