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ミサ聖祭と一般ローマ暦

カトリック教会はキリストの神秘を秘跡によって祝う。秘跡は典礼の中で授けられる。七つの秘跡は神と人間との関係性に関する物、心と魂の癒しを与えるもの、家庭生活と司祭職の召し出しに関わるもので成り立っている。それら諸神秘は一年を通して祝われる聖節とおとめマリアと諸聖人の祝祭日からなる。

江戸末期のカトリック再宣教の折、潜伏キリシタン達は大浦のお御堂でプチジャン神父様に死を覚悟して思いの丈をぶつけた。「サンタマリアの御像はどこ?」と。その後、悲しみの節(四旬節)を守っていること、ローマのお頭様からの派遣かどうか、司祭が独身かどうかを確認して真のパードレだと喜んだそうだ。

彼らが代々命を賭して守ってきたのは、洗礼、聖母の崇敬、ローマの教導権への従属(教皇様の首位権と使徒継承の教会)、カテキズム、祈り、そして教会暦だ。教会暦にいたっては一人の司祭もローマの教えも途絶えていたのに一日たりとも間違ってはおらず、プチジャン神父様は驚愕と感嘆のうちにパリミッション本部に報告の手紙を送っている。さらに準秘跡を大事にし、常に告解を渇望したという。何故か?唯一の福楽は天国における至福直感だけであり、その妨げとなるのは罪であるからだ。

「クリスマスに待降節の聖歌弾いて何が悪いの?」と聞かれれば神父様に聞いてくださいと言うしかない。典礼奉仕者である以上、潜伏キリシタン達が命をかけて守ってきた命の教えの一つが教会暦であるという事実くらい学ぶべきだし、知ってのうえのチョイスならその人の信仰のセンスについて神父様が指導するべきだと僕は思う。

典礼は隙間がありそうで実はない。間はあるがそれは決められた長さはない。ミサの祈りも司祭の裁量で自由に変えることができるが、ミサーレにある祈りの言葉よりふさわしくかつ当日の意向・条件を完全に含めることができることが条件である。全ての秘跡はミサ聖祭の中でないし単独で行われる。

そのミサ聖祭は何に従って意向を記念し、何を祈り、神秘をどのように表すのか。それは「一般ローマ暦」という典礼暦年の原則に従っている。つまり、カトリック教会の最も聖なる祈りであるミサ聖祭と一般ローマ暦すなわち教会暦は不可分のものだ。

つまり、暦を軽視する者は、そのままミサ聖祭を軽視するのと同じなのだ。「いや、そんなつもりない」「知らなかった」は典礼奉仕者には言い訳にできない。極論と言われるかもしれないが、ミサ聖祭を軽視するものはカトリック信者としてどうなのだろうか?ましてやろくろく学びもしないで典礼奉仕とはどういうことか、という小教区の典礼部門の信者への問いにつながる。

ここで問題にしているのは、その人の態度や選択を問題としているのではない。たったそれだけと思えることには連綿と続く信仰と命を賭けてこの信仰を守ってきた殉教者の血によって守ってもらった信仰をいただいているという魂の自覚の問題だ。魂の問題に対して「そんなに突き詰めなくてもいいでしょう」といえるだろうか。優しさと甘えは違う。本当にその人の魂を思うなら厳しさも必要だと僕は思う。

生ぬるくしようと思ったらいくらでもなまぬるくできるのがカトリック信者だが、それは教会の裾野の広さと懐の深さ、そして殉教者たちの血によって強められ、おとめ聖マリアと諸聖人の通功による守りのゆえだ。

典礼空間における秘跡の執行、特にミサ聖祭は決められた行為と祈りを粛々と行うのに間違いはない。しかしそれら一つ一つの祈りと祈りに裏打ちされた行為や所作には全て背景があり、意味があり、その意味が次の典礼行為と結びついて、しかも有機的に結び合わされたものが典礼である。段階的荘厳化の選択は典礼の意向によってかわる。最も盛儀な典礼は主の復活の聖なる徹夜祭であるが、これを基準に段階的に荘厳化するか脱荘厳化する。このように典礼の荘厳化と深く結びついているのは教会暦なのである。

「たかがミサ聖歌で」とは僕には言えない。典礼の暖かさ、神聖さ、深さ、豊かさは教会の伝統と深い学識とセンスを備えた典礼学者によって、時代ごとに刷新され守り伝えられてきた福音そのもの聖伝そのものなのだ。

信徒が長らくカテキスタをつとめた歴史や現実から、信徒が受け持てることは信徒使徒職の名の下に受け持つようになった。だが、限界はある。その人の信仰がどうこうと言う問題ではなく、もちろん知識量を非難するものでもなく、ただただ典礼学は聖書学には及ばずとも情報量が多いのだ。2000年前からの伝統を切り取って守ってきた背景に加え、ラテン語ミサのミサ答えと現行ミサの侍者の共通点と相違点など、提示されているとは言えいまだに整理されていない問題も多い。特別形式ローマ典礼ミサを理解できる世代はだんだんと少なくなっていく。ましてや最近の成人洗礼の人には公会議前後のことは知る由もない。とにかく時間的制約があるからだ。昔のカトリックを知らなくていいわけがないのだがそれを理解するすべもない。

だが、先に述べたように、聖歌の選曲一つ、オルガニストの選曲ひとつ、侍者の姿勢や所作ひとつで典礼の表したいことを表出させることも難しくすることもできる。祭壇奉仕の面では侍者だけでなく司祭が決定する典礼の段階的荘厳化の理解にも幅があり、信者から指摘することでもなく、結果取り扱い注意案件になってしまう。それに自分の理解や方針や選択に対して指摘をされるということは決して面白いものではない。まったく難しい話だ。

ただ、「たかが〜くらい」は典礼にはあり得ないことをせめて典礼奉仕者には周知していくべきだと思う。何年も指定通りに日本全国同じ聖歌を歌っていたという背景を思えば、自分達でミサ聖歌の選曲もろくにできない方が忠実な信徒なのかもしれない。

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