日本の教会の文脈上での「LGBTQ」という呼称は適当だろうか?
LGBTQを「性的少数者の総称」と定義するのを目にするが、単に性的少数者の呼称ではない。多様性の一致を前提とした政治的連帯を表明するものだ。性的少数者の人権の問題において何らかのアクティヴィティもしくはそれに対し賛意を表明する人々を政治的に括った呼称だ。
英語圏、諸外国においてLGBTQというのは文字通り性的少数者の総称として用いているが、用いる人々は押し並べて政治的に自覚的だということ。そして、政治的に悪意を押し付ける文脈でもLGBTQ**と用いられることから、実に政治的呼称であることを認識されたい。
僕はLGBTQという呼称それ自体に問題は感じないし、違和感はない。あくまでも、それは日常における人権運動と多様性の一致を目指す社会を前提として。
政治的な問題で誰が含まれ誰に寛容でないかはさておき、この呼称を日本の教会の文脈で使うことに僕は大きな戸惑いを覚える。なぜなら、政治的連帯を示さない、示すことができない人はこの呼称から除外されるからだ。政治的連帯表明者の総称を教会の現場で使うことは日本では困難に感じる。
教会における性的少数者は政治的連帯を示す者だけであってはならず、むしろ、声を上げることすらままならない人とどう向き合い、その人と共に歩むかが福音的勧告への一つの応答ではないか。
少なくとも教会の文脈において、性的少数者当人の政治信念やアクティビティー、また関係性や性行動における倫理、身体への医学の介入の有無を問わず、より包摂的でなければ福音的とは言えない。かといってMSM(men who have sex with men)といった臨床や公衆衛生上の行動のみをフォーカスした呼称も、性的指向の差異こそないが、教会の文脈にふさわしいとは思えない。
盛んに教会内でLGBTQについて語られることは本当にありがたいし、事実、教会においていまだに解決されていない大きな問題であるから盛んな議論のパストラルケアが必要だ。だが、LGBTQという呼び名を性的少数者の総称と用いることは、特定の政治的連帯を示す人以外はみな取り残されるということを指摘しておきたい。
人権の運動と、教会の問題は文脈は重なるものはあるものの、決して同一ではない。福音的視座へと転換し共に歩みを起こそうとして、その現実がある種「上から目線」の排除へつながるのはあまりにも残念だ。そのことに自覚的でなくして、教会内外での性的少数者への福音的アプローチは、実は無理であるどころか、新たに孤立する人を生むことを認識されたい。
福音の価値は不動だ。問われるのはわたしたちの意識しない(気づかない)現実だ。その気づきのなさの向こう側に取り残される人々がいることに目を向けずに、福音が何かを語ることはどうなのだろうかと、まず自らを問わねばならないと思う。