イエズスが示すサマリアの女性への敬意と共感
北イスラエル王国がBC722年に陥落した後、サマリア人はエルサレム神殿ではなく、ゲリジム山を自分たちの聖所とした信仰生活を送っており、南王国ユダの末裔たちからは異邦人扱いされていた。どちらにしてもローマ帝国の圧政にあえぐ少数の被抑圧民族に変わりはない。
当時、異邦人に話しかけることはあり得ないことで、ましてや男が女性に話しかけるのは言語道断だったらしい。 というのも、当時の中東の社会・家族観では女性や子供は家長の物であり(扶養義務も生じるのだが)その女性から見知らぬ男性に話しをかけると言うことはまずあり得ない状況だったそうだ。ヨセフではない相手(ま、聖霊ですか)の子どもを身ごもった母マリアの陥れられた恐怖とおののきは想像を絶するものだったであろう。
復活節主日から連続で読まれていくエピソードは洗礼志願者に「イエスとは何ものなのか」を紹介するためのテキストである。そして、復活徹夜祭の後に続く主日のテキストはカナの婚礼やエマウスでの夕べ、聖トマスへの傷の開示など、そしてイエスの復活やパン裂きの儀式などを教える「秘儀教話(ミスタゴギア)」が続いていく。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
ここで、イエスは「常識」では考えられない行動にでる。異邦人の女性に「水を飲ませてください」とお願いするのだ。そう、イエス自ら。 そしてもう一つポイントは、この女性が正午ごろに水を汲みにくるという特異性。 通常、水汲みは女性の仕事で、太陽がカンカンと照りだす前の明け方に汲みに行くのが通常だった。 そして、その井戸辺は女性たちの文字通り井戸端会議の場であったようだ。むろんこの女性はその交わりからはずされてしまっていることをあんにしめしているわけだ。 だからこのサマリアの女は、人目を避けなければならない事情、他の女性たちとあったら都合の悪い、間違いなく日々悪口や差別を受けることがわかりきっているからこそ、誰も来ない、日も昇りつめている正午あたりにこっそり水を汲みにいくわけだ。自分自身の尊厳を見失わされ、ひっそりと負い目をもって生きていかざるを得ないと信じて疑わないその女性に、低姿勢に水をお願いするイエスのことを始めはをあやしく思う。もうこれ以上傷はつきたくないのだから。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
このサマリアの女性にはかつて五人の夫がいて、今は婚姻関係にない男と所帯を持っているということをイエスは見抜くが、決して断罪はしない。ここも大きなポイントである。 毎日の生活の中で、陰口を叩かれ、罪人呼ばわりされ、誰もいないのを見計らって炎天下の中水を汲みに行く生活を強いられているその女性が、その現実をカミングアウトするのだが、イエスはそれをしっかり受け止める。違いは違いとして受け入れていくためには、お互いの違いを知るための対話が不可欠であること、そして、その対話を始めるにあたって大事な姿勢はイエスがされた「水を飲ませてください」という姿勢にあるのではないだろうか。普段口もきくこともない、話かけることすらない、異邦人の女性にイエスは低姿勢でお願いをする。
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 イエスは日常的な出来事から生ずる問いに、福音の実践によってそれらの垣根が取り払われることを宣言する。そして、この女性が希求していたメシアは「このわたしである」と自己開示なさる。イエスは教養のある学者たちや、清めなど宗教的儀礼を守れる富裕層にご自身を明かされることはなかった。ここに神の選びの神学の一端を見出すことができるのではないだろうか。 4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 4:31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 4:32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
当たり前のように非日常的行為であるイエスの異邦人女性との対話を目の当たりにした弟子たちは当然驚くのだが何も言う者はいなかった。弟子たちのほとんどは、ユダヤ人と言えども、宗教上穢れた職業とされてきた漁師や、ローマ帝国に支払う同胞裏切りの税金集め、すぐにシカリという半月剣を振りまわす政治的暴徒、いわゆる社会の最下層の人たちである。その視座からしか見えない世界では、ああでもないこうでもないと言う必要はなかったのかもしれない。
そのあと、物質的な事柄と日常的体験からの問いと、それに対するイエスの答えにみえる決定的な違いをヨハネ福音は記している。 これはサマリア人がとんちんかんなことを言ったのではなく、その自分の生活のただ中で視座の転換(メタノイア)をせまり、告げられた「福音」に生きよ、という読むわたしたちへのメッセージでもある。イエスはユダヤ教への改宗を迫っているのではない、のべ伝えられた福音を生きることはあなたの中で可能なことなのだということを宣言しているのである。
「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」とは、福音そのものであるイエスの生き方を通して神のみ心をおこなうことが、あなたにはできるのですよ、という人間の尊厳の回復の宣言であり、福音に生きよ!という力強い神の自己開示なのである。しつこいようだが、あなたの心の中に、福音を実践することのできる心があり、あなたを差別に閉じ込めている人々すら変えられていく生きる力の実践をあなたはすでに内包しているのだ、というイエスの言葉に感動を覚える。
サマリアの人々との関わりのなかで、全くコミュニケーションがなかった人々の口から「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と言わしめるその関わりに生きるようにわたしたちキリスト者も招かれているのではないだろうか。
あるキリスト教会は、入信後、劇的な「改心」を遂げた例をまれに「救い」とよぶ。そして、それがなさなければならない、とまでいう聖職者もいる。
しかし僕はそうは思わない。回心と訳出されるメタノイアとそこ(底)から見える(立ちあがる)ことの実践が大事なのではないだろうか。
誰からも必要とされることなく、人目をはばかって生きてきたその人に、「水を飲ませてください」とお願いするその関わりの中で、彼女は自己受容を果たし視座を変え生きる喜びへと変えられていく実にダイナミックな内的変化がある。これを救いとよぶのではないだろうか。そこまで人を解放するちからこそが福音というのではないだろうか。
違いと違いを知り、尊重しあうことは実に難しい。押し付けることも出来ないし、押し付けられることも困難にかんじるだろう。ただ、このイエスとサマリアの女性との関わりに疑問の余地はないのだ。私たちキリスト者の負った使命は、こういった一つ一つの視座の転換なしには見えないものなのかもしれない。
関わることをやめないこと、しかもその人を支配的に動かすのではなく、understand(理解=下に立つ)というその方の尊厳の回復のための関わりに生きるということを今一度生きなおすことも、この期間のなかでの大切な視座の転換なのではないだろうか。 日常生活を日常生活として受け取ることは当たり前のことだ、しかし、その一つ一つを福音的視点(弱さへの視座の転換)にたつからこそ、わたしたちはキリスト者と言えるのだ。 どれだけ流暢に祈りを唱えても、どれだけ美しい所作でミサに与っても、どれだけ熱心にミサにかよったとしても、そこにこの視座の転換とそこからくる関わりがなければ、それは宗教行為の一貫にすぎない。と、僕は感じる。
さて、どのように関わることが求められているのだろうか?
(2011年3月29日記す)