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宮清め?

13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2.13-22)

このエピソードは四つの福音書が共通に報告している「宮清め」と呼ばれる出来事だ。イエスは何を「清め」たのか?この伝承そのものの意味は何なのか?

当時神殿詣でする時にはローマ貨幣からユダヤ貨幣へ両替し、犠牲として捧げる動物を買い求めなければならなかった。ルカ福音ではマリア様とヨゼフ様がイエスを奉献するために神殿詣でしたことが描かれている。この時二人は律法に従って山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げようとしたとある。金持ちは牛一頭や羊一匹を捧げるが、庶民や貧しい人は何とか鳩をささげるのに精一杯だったというようなことを子供の頃に聞かされた覚えがある。

両替商は手数料をしこたま取り、捧げ物屋も律法の規定どおりの動物しか捧げられないことをいいことに独占していたと言われている。貧しい人からひどいレートで両替し、さらに間引かれた両替金で人々は捧げ物を買わなければいけなかった。

この人たちは表向きは神に礼拝をすることを助けることを生業としているのだが、その実は反ローマでも反偶像崇拝でもなく、しっかりローマ社会とずぼずぼに癒着し、同胞の民から搾取し、また律法を盾に自分達の動物しか捧げられないと祭司達とも癒着していたと考えられる。

要は、搾取や欺瞞の構造を受け入れ、ローマを後ろ盾とした社会の力に迎合し、したり顔で神殿の習わしを利用しながら、欺瞞の構造を固定化させ既成概念化させていたわけだ。

「宮清め」というと、ルカ福音ではイエスはイザヤ書を引用しこのように言っている。

『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』

「宮清め」の記事の落とし穴は、「清め」という言葉とイエスのイザヤ書の引用である「祈りの家」にイメージが持っていかれてこのエピソードの意味するところのものである「既成概念」や「既存の悪の構造」、「悪習」や「権力への迎合」「権威との癒着」そして「差別の助長」といった諸悪を覆すという実にダイナミックなものが削ぎ落とされてしまう点だ。

この箇所は「(払い)清める」とか極度に精神化した「敬虔な祈り」など求めてはいない。教えてもいない。だが聖書を読む者はそのほうが都合がいいのかも知れない。敬虔にロザリオを括り、ラテン語で祈りを捧げ、ついでにラテン語ミサに与っていれば「祈りの家」として保っているような錯覚に浸かり込むことはできるだろう。

だが、そんなことはこのエピソードは求めてはいないことを誠実なカトリックなら知るべきであろう。

イエスが屋台をひっくり返し、鳩が逃げさり、多くの貧しい人々が両替に差し出した皇帝の銘のあるローマの金をぶちまかしたのは、上述した通りみんな利益と私欲を貪るために形骸化させた「既成概念」と「既存の悪の構造」という欺瞞をひっくり返し、それらが「悪習」であり「権力への迎合」と「権威との癒着」、そしてそれらによる「差別の助長」に組み込まれている人々や既成のあり方と悪の構造から自由になりなさい、と人々に告げるために他ならない。諦められていた既成事実と悪の構造がイエスによってひっくり返され、飛び立っていった鳩達はなんと象徴的であろうか。

共観福音書はイエスの公生活からエルサレム入城〜十字架と描かれているのでこのエピソードはエルサレムに入場されてから描かれている。一方、公生活描写がすくなく独自の時系列と描き方をしているヨハネ福音は、カナの婚礼のつぎのエピソードとして描かれている。

カナにおいて聖母マリアの取り次ぎによりイエスの時を早められたわけだが、その次にはもうこのような構造悪や搾取の問題を取り上げている。つまり、イエスの十字架の出来事まで一貫して貫き通される視座としてヨハネ福音はあえてここに描いているのだ。ヨハネ福音の読者達は共観福音書を熟知してたと思われる。つまり、宮清めの出来事は「宮清め」ではないことを知っているのを前提としているわけだ。

このエピソードがわたしたちに教えてくれることは、何でも祈りで精神化すればいいという問題ではないということ。それ以上の偽善はないことを畏れながら受け入れていきたいものである。私たちがその悪習や構造悪や搾取や嫌悪などにつながることを知っておきながら、第一手段としてではなく最終手段かのように祈りで対処しようとするならば、わたしたちは屋台の両替商や捧げ物屋の仲間であり彼らと同盟を組んでいる偶像礼拝者の大偽善者であると認めざるをえないのではないだろうか。

大仰な決心や意思表明は必要ない。イエスご自身が「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11.30)と言われる。イエスに出会い、イエスに結ばれ、イエスの十字架の傷に結ばれるならば、その傷のいさおしにより荷は軽くされるのだ。わたしたちの友であり主であるイエスから目を離さないでいただきたい。常にイエスとの友情に生きるのなら、悪の構造を見抜いてやろうとか搾取や差別を識別してやろうなど思わなくとも、イエスとの友情のその最中にわたしたちはもうすでに関わっているのである。

人々の苦しみをつぶさにご覧になり、ご自身も鳩しか捧げられなかった恥ずかしさや、十字架の元に佇む悲しみを生き抜かえれた聖母マリアのみ心にわたしたちの心を信頼を持って奉献しましょう。聖母マリアの取り次ぎにより御子イエスとの親密な友情にわたしたちが誠実に生きることができるように願いましょう。

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