(栖庫ナオ)の独断
栖庫ナオはチッと舌打ちする。
(しっぽはつかめなかったな)
さっき小野フランキスカと別れるまぎわ、かけたカマには期待したような手ごたえを得られなかった。
(あれは、ぜったいに小野フランキスカではないんだがな……)
ミラーハウスから出てきた小野フランキスカをひと目見たとき、栖庫ナオはどこかへんだと感じた。
どこがと訊かれたところでうまくことばにできそうにはなかったし、たとえできたとしてもだれにも伝わらないだろうなと思った。
それは、ものごころつくまえから小野フランキスカの傍にいた栖庫ナオだからこそ感じとれる違和感だった。
たしかに見てくれは紛うことなく小野フランキスカだった。いや、声も表情も、立ち居ふるまいも、なにもかもが小野フランキスカだった。
しかし、と栖庫ナオは思う。
ミラーハウスから出てきた小野フランキスカが、ミラーハウスに入るまえまでの小野フランキスカとおなじだとは思えなかった。
そして、そのあとに小野フランキスカのとった(正確には「とらなかった」)あるひとつの行動が、栖庫ナオの感じた違和感を決定的なものにした。
いずれにせよ、栖庫ナオの知る小野フランキスカは「消失してしまった」ということになる。
栖庫ナオにはとうてい受け入れがたい事実だが、それを拒んだところで小野フランキスカが戻ってくるわけではない。だから、現実の受け入れは速やかに、小野フランキスカを奪還する手だてを考える方がいい。
焦りはある。というか、泣いて喚いて暴れたいきぶんだ。
だが、それをしてなにになる?
(落ち着け、わたし)
街灯に照らされた夜道を歩きながら、栖庫ナオはあらぶりそうになるきもちをなだめる。
栖庫ナオは頭のなかで時を戻す。
メリーゴーランドに乗ったあと、わたしたちはクレープ屋で休憩し、そろそろ帰ろうかって外に出たところであの青の道化師に声をかけられた。
道化師が指さした方角はゲートとは反対のほうだったから、わたしたちはおのずと園内の奥のほうへ進むことになる。
隠れた場所の少ないあの遊園地ではめずらしく、奥まった薄暗い場所にミラーハウスは建てられていた。
(あのミラーハウスだって、いまはもう存在してないかもしれない)
栖庫ナオはミラーハウスごと幻影だった可能性を考えてみる。あれは、小野フランキスカを変えてしまうためだけに仕組まれた罠だったんじゃないか?
だが栖庫ナオがひっかかっているのはそこではない。
ミラーハウスからゲートへ向かうとしたらかならず通るあの場所で、小野フランキスカはなんのアクションも起こさなかったのだ。
ちいさな子どもたちがおとなにみまもられながらはしゃぎ、おとなはそのあいだしばし休息できるあの場所。
そう、あの小野フランキスカが、パンダカーに1mmも見向きもしないことなんてあるんだろうか?
栖庫ナオは記憶のなかでさらに時を戻す。
それは思い出すにおぞましい記憶だ。
大学進学で上京したすぐのころ、はじめて小野フランキスカとここへ来たとき、小野フランキスカはパンダカーに乗りたいと言いだし、それだけならまだしも、「ナオも乗るんだよ」と言いだした。
見まわせばパンダカーを楽しんでいるのはちいさな子どもばかりで、そこにおとなたちの視線が注がれている。
「ぜっっっったいいやだ」と強い口調で断ったら、いつも冷静な小野フランキスカは「じゃあもうナオのこときらいになるから」とか「乗ってくんなきゃわたしここから動かないよ」とか意味不明なことを言ってきて、そんな小野フランキスカをわたしは「かってにすれば?」と突き放すことも、放って帰ることもできたのだったが、まぁ、折れる。
パンダカーにまたがりとことこ広場を右往左往するわたしはひたすら顔をうつむけて「殺してくれ」って思っていたのに、小野フランキスカはなにがそんなにうれしいのか、そんなわたしをにこにこ眺めてて、あのときほど小野フランキスカのことを憎たらしいと思ったことはない。
その後もそこを訪れるたび小野フランキスカはパンダカーに乗りたがり、わたしを乗せたがり、もうわたしの羞恥心も麻痺してきたころにタンデムをせがまれて、まわりの子どももおとなもどん引きさせたあげく、さすがに係員から注意を受けた。
――だからわたしは手代木マカナに言ったんだ。
「甘くみてると、ひどい目にあうぞ」と。
それなのに、小野フランキスカは視界にはいってるはずのパンダカーエリアに目もくれない。
手代木マカナたちや安門良アトルたちがいたから、とも考えてみるが、小野フランキスカはそんなことを気にする性分じゃない。
むしろ、全員巻き添えにする、そういうやつのはずなんだ。
わたしの違和感は、そこで決定的になった。
だから、あれは、ぜったいに小野フランキスカではない……
さてどうしてやろうかと思案する栖庫ナオに、ひとつの疑問が頭をもたげる。
(小野フランキスカを取り戻すとして、わたしが取り戻したいのは、いったいどの小野フランキスカだ……)
ミラーハウスに入るまえの小野フランキスカ?
わたしが回路を切断するまえの小野フランキスカ?
手代木マカナに見出されるまえの小野フランキスカ?
熱異常を起こすまえの小野フランキスカ?
熱異常の原因と触れあうまえの小野フランキスカ?
安門良アトルと出会うまえの小野フランキスカ?
それとも、わたしだけが独占してるという気になっていたころの小野フランキスカ?
はたして、それらはすべて「小野フランキスカ」なのだろうか?
どの小野フランキスカにしろ、それはわたしがみている小野フランキスカにすぎなくて、じっさいの(?)「小野フランキスカ」とは言えないんじゃないか?
わたしは、わたしがみたい小野フランキスカを、「小野フランキスカ」という形代のうえにかってに投影しているだけなんじゃないか?
それはそうだ、という答えがどこからか聞こえてくる。
それは、そうだ。
わたしがみている小野フランキスカは、手代木マカナがみている小野フランキスカとはちがうし、安門良アトルがみている小野フランキスカともちがうだろう。
小野フランキスカがおもう小野フランキスカとも、きっとちがっているはずだ。
小野フランキスカが、その肉も魂も、どんなに変わってしまったとしても、わたしは変わらず小野フランキスカを思いつづけることができると思っていた。
たとえ小野フランキスカがわたしのきらうものをすきであったとしても、わたしは小野フランキスカをあいすることができると信じていた。
だけどそれは、小野フランキスカがわたしのことを思ってくれているかぎりにおいて、という条件付きだったのではないか……
だったら、もう、小野フランキスカは、わたしは……
栖庫ナオは頭を振って思考を払う。
(なんだいまの、わたしはバカか)
小野フランキスカがどう思っているのか、わたしがかってに決めてどうする?⠀そう、じぶんを戒める。
それで気弱になりそうなじぶんを奮い立たせたつもりだったが、そこにあるはげしい矛盾に気がついて、苦笑いする。
じぶんでは小野フランキスカを「間違いたくない」と思いながら、小野フランキスカの間違いには寛容なんだな……
(しかたないな、それがわたしの存在のしかたなんだから)
つづきは寝て起きたあとだ――
家についた栖庫ナオがメールボックスを開くと、一通の白い和封筒が入っている。
差出人は、栖庫柾楠。栖庫家の当代であり、ナオの父。
あいかわらず古風だよな、と思いながら封を切る。
「小野について伝えておくべきことがある」
手紙は、ナオに「帰ってこい」と言っていた。
なるほど、ちょうどいいころあいかもな。
栖庫ナオはそう思い、明日にでも父のもとへ向かおうと決める。
ふふ、と笑いがこみあげてくる。
フランキスカのことをかってなやつだと思いながら、わたしもたいがいかってだよな。
そうさ、わたしと小野フランキスカはいつだってかってだ。
小野フランキスカはわたしにかってになんでも決めてしまうし、わたしはわたしで小野フランキスカになんにも相談せずにかってをはたらく。
それでもわたしと小野フランキスカはすれ違わず、むしろそのために、ふたりの距離はありえないほど近くなる。時間も空間も超えてしまいそうなほどに。
栖庫ナオは、それがただの奇跡だったかもしれない、とは思わない。
おたがいにかってをぶつけあい、おたがいのかってをゆるしあう。
(それこそがわたしたちふたりの存在のしかただったよな)
だからこんども、栖庫ナオは独断する。
だれにも告げず、だれの手も借りず、ただひとりで決める。
焦りはある。というか、泣いて喚いて暴れたいきぶんだ。
だが、いい。
焦りも、泣きたいきぶんも、暴れたがるじぶんもぜんぶそのままにしておけ。
父に「あした」とメールで返事を送り、栖庫ナオは部屋の明かりを消す。
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