『さいきんのへびろて🐍🔄』【ボカロ】雑感
ボカロはミクがはじめて出てきたころに少しだけ聴いてて、べつにハマってはいなかった。途中、ちょこちょこつまみ食いみたいに聴いてはいたものの、ぼくの生きてくことに定着はしなかった。
その後長いこと経ってどっぷり浸かることになるのだけど、それには先にハチの楽曲と出会っていたことが何らかの下地になっていたのかもしれない(これだってもうハチが米津玄師名義の活動がメインになったころに出会っている)。
鮎川ぱて先生の本が出て一年後にようやく読んで、載ってる曲をいちどまとめて聴くことがあって、好きだなって曲や作者もでてきて、YouTubeのおすすめに表示される曲を片っ端から聴いてまわって、ボカロシーンの深淵につかまった。
よそで「ボカロ聴いてるよ」って言っていたら、ほかの子がおすすめしてくれたり、ぼくのおすすめする曲を気に入ってくれたり、インターネットでボカロ作者と触れ合うことがあったり、なにかにハマったり好きでいつづけるうえで「同好の士」っていうのはもつべきものだと思った。
それらの体験のほとんどはここ1、2年のできごとで、だからぼくはボカロ曲を通時的には聴いてなくて、むかしもいまも、まとめて「いま」聴いている。すべてが「いま」のぼくにとってあたらしい。
すきな作者は何人も見つけたけど、それとは関係なくただひたすら目に入る曲を聴きまくっては、ぼくの感情に刺さったものをここでときどき紹介している(だから、ぼくのレビューはボカロシーンの「文脈」にそぐわないのかもしれない)。
ボカロ曲がなんでこんなに刺さるんだろうなっていうのは、歌われている感情がぼくの感情と重なり合うからで、それがボカロの声で歌われるからで、作り手たちがぼくに近いところにいるような気がするからだろう。
ふつうならおおっぴらにせず、じぶんひとりの胸のうちにこっそり記しておく類の感情がそこにあって、ああわかるな、ああこれはおれだな、と共感する。そういう意味では文学に近い。
ボカロ曲が、ぼくの感情を外部化している? そうかもしれない。
ほんとうはぼくのなかにはなかった、もしくはあっても気にしなかった、あることに気づかなかった、ほんとうはあるのにないことにしてきた、そういう類の感情たちがぼくの外側にたくさんかたちになって存在している。
もういい大人になって、いつも持ち歩いていてはいられない「感情」をじぶんの外にストックして、ときどきひっぱりだしてはひたり、じぶんじしんと向き合ったり、引き裂かれたりする。
これを書いているいま(2024/12/30現在)、2024/10/29からヒマをもてあまして書きはじめたレビューはもう60曲になろうとしているけれど、好きになって身近に置いておくようになった曲は、すでに書いた曲も含めて700を超えてきた。
古い新しいはともかく、有名無名についてはよくわからない。
そういうものとは関係なく、これからもぼくに刺さる曲と出会いつづけてく。明日(大晦日)も明後日(元日)も。おすすめに曲があがりつづけるかぎり。
そうして出会った曲が、ぼくに「生きてる」って実感を与えてくれるから。
たいへんだぜ。たのしいぜ。