小野フランキスカの断続する平行
「うわぁー すごーい!」
聞きおぼえのある声がして、小野フランキスカと栖庫ナオは待ち合わせの相手が着いたことを知る。
地上八階の見晴らしにすなおな歓声をあげたのは大槌美夜だ。
「旧市街にこんなところがあるなんて、わたし知らなかったなぁ てしろん知ってた?」
そう尋ねられた手代木マカナは顔をうつむけてじぶんの足先をみていて、せっかくの景色が目に入らない。
夢にまでみた小野フランキスカとのデートが実現するよろこびで昨夜はほとんど眠れず、道中美夜が話しかけてもうわの空の生返事ばかりで、つまり、しあわせのメーターが振り切れてしまっていた。
待ち合わせ場所に着き、じっさいに小野フランキスカの姿を確認するや、とたんに緊張が高まって、顔を上げることもことばを発することもできなくなった。
そんな手代木マカナを小野フランキスカは心配そうにみて、「だいじょうぶ?」と声をかける。
(高所恐怖症、ってわけではないよね?)
反応がない手代木マカナの代わりに大槌美夜が困りましたねって感じの笑顔をこちらに向けてくる。やさしい子だな。
しかたがないから、小野フランキスカは美夜に「いいでしょ、ここ」って微笑む。
小野フランキスカがいう「ここ」とは区が運営する「文化観光センター」で、地上八階にあるテラスは解放されている時間帯ならだれでも無料で入れる。有名な映えスポットの山門も見えるし、634mの電波塔もかなり近くに見える。
「この町、ランドマークはいっぱいあるんだけどさ、ほら……」と、栖庫ナオは眼下を指さす。
美夜は指さされたほうを見おろす。
たしかに赤く大きな提灯のさがった朱塗りの山門は人目をひくが、そのまわりには数えられないくらいの人びとがたかり蠢いていて、あそこで待ち合わせしようものならヘタすると一生出会えないかもしれない、と思われた。
「ふたりは、いつも、ここで?」
「ううん、ナオと出かけるときはたいてい出発からいっしょだから ここで待ち合わせするのは今日みたいなときだけ、かな」
美夜と小野フランキスカのやりとりを聞いていた手代木マカナのからだが小さく震える。
栖庫ナオへの対抗心が湧いてきたのか、顔をあげて口を開く。だけどそれは「わ、わた、し…… お、お、お、お…… ふ、ふ、ふ、ふ……」ってまた鳩になっちゃってるから、小野フランキスカは「おふろ、入りたいの?」ってわざと言ってみる。
「ぶっ…… な、なにゆって……?!」
うん、手代木マカナが小鼻を押さえながらおおきな声をだすところまでがワンセンテンスだ。
(でもまあこれで口火は切れたでしょ)
手代木マカナは頭も回るし行動力もある子なのに、わたしといるとポンコツになるようだ、と小野フランキスカは分析する。
それはわたしの熱異常とおなじだから気持ちはよくわかる、とも。
でも、と小野フランキスカはナオにだけ聞こえる声で伝える。
「わたしがさ、だれかの調子を狂わせちゃうことって、あるんだね」
言われてナオはいっしゅん目を見開き、小野フランキスカがへんに思わないうちに「そうだな」と相づちをうつ。そして、胸のうちであきれる。
(まったく…… こいつのなかで、わたしはどういう扱いなんだろうな)
もう何度も自問した問いが、栖庫ナオにまた浮かんでくる。
小野フランキスカにとって栖庫ナオとはそういう「影響」の圏外にある存在だとみなされているのか? あるいは、小野フランキスカにずっと調子を狂わされっぱなしのわたしがそれと悟られないように上手に隠してこれたということか……?
前者なら、小野フランキスカに「他者」として意識されていないことがかなしく、後者ならさすがに小野フランキスカが鈍すぎてちょっとひく。
なにも考えてないような笑い顔を向けてくる小野フランキスカをみて、考えるだけむだだな、と栖庫ナオはいつものように結論づける。
「はい、おめざ」
小野フランキスカがもっていた紙袋をひらき、開店まえからナオと並んで買ってきた老舗のどら焼きを配る。
「これ食べたら出発しようか」
「これおいしいです〜 皮がふわふわ〜」ってはしゃいでいるのは大槌美夜で、「もったいない……」とかぼそぼそ言いながらバッグにしまいこんでいるのが手代木マカナだ。
小野フランキスカはナオに白あんを渡し、じぶんでは黒あんをとる。ナオはなにも言わずふたつに割った白あんの片方を小野フランキスカに差し出し、小野フランキスカは黒あんの半分をおなじようにする。
そのやりとりがあまりにも自然だったから、それをみていた手代木マカナはふたりがいつも何度もそうしていることを知る。そうして、じぶんと小野フランキスカとのあいだにはまだそういう関係がないことを悔しいと思う。
(でも、まだ、これから)
「フランキスカ先輩」
手代木マカナが小野フランキスカの名を呼ぶ。
「わたし、きょう、フランキスカ先輩とデートできるの、すごくうれしいんです」
だからよろしくおねがいします、と頭を下げる手代木マカナに、小野フランキスカと栖庫ナオは思わず顔を見合わせる。
小野フランキスカが「ん、わかった」とこたえるのを聞いて頭を上げた手代木マカナに、ようやく笑顔がともった。
「ここにきたからには素通りはできないよね」
小野フランキスカは眼下の参道を見下ろし、みんなにふりむいて言う。
「かくごはいい?」
四人は、さっきまで空から見下ろしていた参道に足を踏み入れる。
一月下旬のいまごろでもこれだけの人出だったら元日はもっとすごいんだろうな、と手代木マカナは想像して、それを口にすると、小野フランキスカと栖庫ナオは口を揃えて「あれはヤバい」という。前に進んでる感じがぜんぜんしない、らしい。今日はまだマシだ、と。
だけど手代木マカナは、参道の行列はそれほど苦痛じゃなかった。天気がいいのと、参道の両脇に並ぶお店が見てるだけでたのしいのと、なによりすきなひとといっしょに初詣にいくっていう実績が解除されることが、手代木マカナをしあわせなきぶんにさせた。
「だいぶん遅い初詣になっちゃったけどね」と小野フランキスカが苦笑いするのは、デートの日取りを手代木マカナたちの試験が終わってからにしようと決めたからだった。
それくらいなら小野フランキスカとナオの論文提出も万事済んでることだろうし、ちょうどいいよね、ということになった。
クリスマスも年越しも初日の出も年末年始のイベントはぜんぶスキップして迎えた今日だったから、手代木マカナにとっては待ちに待った今日だった。
いざ四人で行動してみると、ことあるたびに小野フランキスカと栖庫ナオの関係が目についた。
どら焼きにしろお参りにしろ、なにかにつけて小野フランキスカと栖庫ナオの親密さをみせつけられるのはつらかった。それは、ふたりのあいだにじぶんの知らない時間があるのを思い知らされることだったから。
でもそれは思ってみてもしかたのないことだ。
手代木マカナはうじうじ悩まない。
(そんなことで、わたしの思いは、変わらない)
たしかめて、前を向く。
かみさまにも頼らない。
わたしの思いは、わたしが叶える。
「これは、なんというか、渋い、ですね……」
大槌美夜はうまくことばを選べないまま、感想をもらす。
「えへへ、いいでしょ 日本最古の遊園地」
小野フランキスカはなぜか得意げに胸をはる。
「すきなんだよね、ここ」
遊園地なのにキラキラしすぎてないところ、若者よりもちいさい子ども連れが多いところ、まわりをふつうの町に囲まれてて日常と非日常の境目を感じられるところ、ほとんどのアトラクションに待ち時間なしで乗れるところ、ぜんぶを味わうのに二、三時間もあればじゅうぶんなところ、なんだかむしょうに懐かしいきもちにさせてくれるところ……
小野フランキスカのあげる推しポイントがそもそも渋くて、大槌美夜はちょっとついていけない。
一方、小野フランキスカに恋する手代木マカナは、これまでそんな趣味趣向はなかったはずなのに、小野フランキスカのすきなものをじぶんもすきだと思う。
「さあ、片っぱしから乗るよ!」
テンションをあげる小野フランキスカとは対照的に、隣に立つ栖庫ナオは落ち着き払っていて、「きみたち、アトラクションはへいきか?」とマカナと美夜にたずねる。
いま視界に映っているものを「アトラクション」と呼ぶにはいかにも地味で、小さな子どもでも笑いながら乗れてるものばかりだったから、ふたりは余裕だとこたえる。
だから、栖庫ナオが重々しい口調で「甘くみてると、ひどい目にあうぞ……」と言うのは意外な気がした。
それとも、栖庫ナオはこんな子ども向けのアトラクションでさえ苦手なんだろうか?
(だったら、わたしの勝ちじゃん)と、手代木マカナになぞの自信が満ちてくる。
たしかにアトラクションは見た目よりも迫力やスリルがあり、それなりにドキドキもしたし脳内物質が放出されているのを感じた。
ローラーコースターは派手なループはないけれど建物ギリギリを走り抜けるのが怖かったし、大きな円盤のふちに座らせられ持ちあげられてぶん回されるやつも狭い園内だからこそ遠心力に迫力があった。
本気で怖かったのは垂直打ち上げ式のタワーのやつで、シートに足の置き場がないから地上60mの高さまで一気に打ち上げられるときも降りてくるときも、足の踏ん張りがきかなくてヤバかった。
吊られたゴンドラに乗ってひと息つくころには「舐めていた」ふたりもすっかりこのレトロな遊園地に満たされていた。
「てしろん、みて なんか、すごい」
大槌美夜が手代木マカナに声をかける。
ゴンドラからみえる旧市街は、冬の午後のおだやかな日差しをうけて淡くかがやき、朝に「文化観光センター」から見たのとはまたべつの表情をしていた。
はじめて訪れたふたりをやわらかく包んで迎え入れてくれるような、そんな感じがした。
それは手代木マカナもおなじで、「うん、なんか、やさしい」と、美夜にうながされて見た景色の感想をつぶやく。
小野フランキスカはそんなふたりをみて満足そうにほほえみ、栖庫ナオはそんな小野フランキスカをみて、なにかをあきらめたような笑みを浮かべる。
四人は狭いゴンドラの空間にいっしょにいながら、おたがいの視線が交わらない。でもそれは、ひとつの狭い空間にいるからこそそうなのかもしれなかった。
お化け屋敷はぜったいにむりという大槌美夜を除いて、小野フランキスカ、栖庫ナオ、手代木マカナの三人で挑むことにした。
正直なところ、手代木マカナもお化け屋敷のたぐいは得意じゃないのだけど、小野フランキスカと接近できるチャンスがあるかもという(よこしまな)期待がまさった。
江戸の怪談をモチーフにしたお化け屋敷は典型的なウォークスルーのやつで、よく見れば作り物だとわかるようなものだったが、手代木マカナは始終びくびくしっぱなしだった。わざとらしく怖がって小野フランキスカにしがみついたりする予定だったがそんな余裕もなくて、右隣を平然と歩く小野フランキスカの左の袖のあたりを掴んでいた。
始終そんな感じだったから、手代木マカナは栖庫ナオもまた小野フランキスカの右の袖を人差し指と親指だけでギュッと摘んでいたのに気がつかなかった。
仕掛けが出てくるたびに、「わぁ」とか「すごーい」とかはしゃぐ小野フランキスカの右横で、栖庫ナオもいつものような仏頂面を浮かべて平然と歩いているものだと思っていた。
出口にあらわれた三人を迎えた大槌美夜は、「楽しかったね」という小野フランキスカにこわばった顔で「ええ、まあ」と答えている手代木マカナを、よくがんばったねってなでてあげたかった。
ただ、栖庫ナオの顔も手代木マカナとおなじようになっていたのに気づくと、(ああ、このひとはこのひとで)と思ったのだった。
気分転換にと向かったメリーゴーランドに、お化け屋敷では強がっていた栖庫ナオはなぜか「そんなもん乗れるか」と乗馬拒否し、白馬にまたがる小野フランキスカが目の前を通過するたびに「ナオ、写真写真」となぞのポーズを決めてくるのにつきあっていた。
栖庫ナオにとっては、目の前を通過するほんのいっしゅんだけが小野フランキスカとふれあえる瞬間だった。あとは、どんなに願ってもつかまえることのできないわるい夢を見せられているようだった。
栗色の毛並みの馬にまたがる手代木マカナは、メリーゴーランドのなかでは永遠に小野フランキスカに追いつくことができなかった。どんなに追いかけてもその背中に追いつくことができないわるい夢をみているようだった。
小野フランキスカと栖庫ナオ、小野フランキスカと手代木マカナは、ここでもやはり交わらない平行線だ。
人生がメリーゴーランドだという比喩はよくない冗談だと、栖庫ナオと手代木マカナはそれぞれに思う。
冬は日が傾くのがはやい。
おひさまがだいぶん斜めになったからそろそろ行こうかとだれかが言って、ゲートに向かう途中、青色の道化師が四人のゆくてをふさぐ。
びっくりして見ると、道化師はぬっとビラを差し出してきて、「あたらシイ あとらくしょんガできタヨ! きテネ!」とどこから出しているのかわからない声で、園内のはずれの一角を指し示す。
興味をひかれた四人が道化師の指さす方へ行ってみると、そこに建っていたのはミラーハウスだった。
「新しい」という期待は裏切られた感じだったけれど、もうあとは帰るだけだし、せっかくだから入ってみよっかって入ることにする。
しつらえはたしかに「新しい」匂いがしたけれど、しかけはなんの変哲もないミラーハウスだった。それでも鏡像に騙されるのがおもしろくて、四人はそれぞればらばらの通路を歩きはじめる。
ここには四人しかいないようで、ときどき「うわぁ!」と驚く声や、「おーい」「はーい」と呼び合う声はみんな、四人のうちのだれかのものだった。
小野フランキスカはひとり鏡の迷路をすすむ。
右にはじぶんの右半身を左半身のように映す鏡像があり、左には左半身を右半身のように映す鏡像がある。
正面にあらわれる鏡には、左右反転した正面の像が映されているはずだったが、そんなことでは説明のできない違和感を感じて、小野フランキスカは立ちどまる。
小野フランキスカが髪をかきあげれば鏡像も左右逆の髪をかきあげるし、小野フランキスカが右に首をかしげれば鏡像は左に首をかしげる。しかし、腕組みする腕の上下が左右で逆になっていないことに気づいたとき、小野フランキスカは異変を悟る。
「ようやく気づいたか? 小野フランキスカ」
鏡の中の〈わたし〉が、〈わたし〉の声で語りかけてくる。
「だれ?」 おそるおそる問いただす。
「ご挨拶だな、小野フランキスカ わたしは、わたし―― 小野フランキスカにきまっているじゃないか」
「そんなことは聞いてない わたしが小野フランキスカなら、あなたはわたしじゃない」
小野フランキスカが言い放つと、鏡像の小野フランキスカは「ふふ」と不敵に笑う。
「それは真とも言えるし、偽でもある」
小野フランキスカは警戒する。へんにやりとりをしてはいけない、と本能で知る。
〈実像の小野フランキスカ〉がこわばった顔をしているのとは対照的に、〈鏡像の小野フランキスカ〉はくつろいだ余裕のある表情で話しつづける。
「鏡像だという意味では……あえて『きみ』という言い方をするが、たしかにわたしは『きみ』ではない。だが、鏡に映っていようといなかろうと、わたしは『きみ』なんだ、小野フランキスカ」
どこからか静かな音色が聞こえてくる。
いくつかの笛で奏でられているようなその音色は、音数が少なく単調なくり返しだったが、深く、重たく、切なく、聞くものの魂をどこかの奥底へ引きずりこんでしまうような響きだった。
小野フランキスカは身構える。この音色に耳をすませてはいけない。この鏡像のことばに耳を貸してはいけない。小野フランキスカはわたしで、目の前の鏡像はわたしではない……
鏡像が騙る。
「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、おなじことをおこなっているからである」
小野フランキスカは鏡像をじっと見据える。
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出でて、ことごとく無益なものになっている。
善をおこなう者はいない、ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦いことばとで満ちている。
彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。
彼らの目の前には、神に対する恐れがない」
「あなたは、じぶんが神だとでもいいたいの?」
小野フランキスカが問う。
「アハッ! それは『きみ』じしんを神っていってるようなものだがねぇ!」
鏡像が愉快そうに言う。
「そこをどいて わたしはあなたに用がない」
らちのあかないやりとりに小野フランキスカは苛立ってくる。
「どかないさ わたしは『きみ』に用がある」
そういうと、鏡像は〈こちら〉のほうへ一歩踏みだし、鏡面を通り抜け、鏡のなかから姿をあらわす。
それはもはや「鏡像」と呼ぶことはできなかったが、姿かたちは頭の先から爪の先まで「小野フランキスカ」そのものだった。
「まったく『きみ』たちにはあきれてしまう。どこまでいっても交わらない。まさしく『断続する平行』だ! だからさ、わたしが交わらせてやろうというんだよ……」
〈鏡像だった小野フランキスカ〉は一歩ずつ距離を縮め、鼻先が触れそうなほどになっても歩みをとめず、ぶつかると思った小野フランキスカが抵抗する間もなく、〈鏡像だった小野フランキスカ〉は小野フランキスカの肉体に重なり、溶けあった。
小野フランキスカは薄れゆく意識のなかで、(ああ、そうか、この声は、あの横断歩道で聞いた声だ)と思った。
小野フランキスカがミラーハウスの通路にたたずむじぶんに気づいたとき、しばらく意識を失っていたような気がしたが、それがどれくらいのあいだかわからなかった。
ミラーハウスのなかには、もう他の三人の声は聞こえなかった。
〈鏡像の小野フランキスカ〉がじぶんのなかに入ってきたことははっきりとおぼえていた。
意識や肉体の自由を奪われているんじゃないかと思ったけれど、どうやらそういうことにはなってないらしい。
じぶんとそっくりおなじ姿をしたじぶんではないものが、じぶんの声でしゃべるのは気持ちのわるいものだった。
わるい夢をみていたみたいで、ほんとうに夢であってほしかった。
だけど夢とは思えないくらいたしかな記憶があって、小野フランキスカはそれをなかったことにはできなかった。
深く、静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
気持ちがおちついたのをたしかめて、小野フランキスカは出口へと向かう。
小野フランキスカがおのれの鏡像と対峙していたとき、ミラーハウスの外では事件がふたつ起きていた。
ひとつは、三人が出口にたどりついたあともしばらく小野フランキスカが出てこなかったこと。
手代木マカナと大槌美夜は早いうちから心配でおろおろしはじめたけれど、栖庫ナオからすればこんなのはフランキスカにはありそうなことだという思いがあり、ふたりよりは長くおちついていられた。
とはいえ、さすがに二十分を超えるくらいからはおかしいと思いはじめ、スマホを鳴らすけれど反応がない。
いよいよ園内スタッフに相談しようと動きだしたとき、もうひとつの事件が起きる。
「ナオちゃん、さん……?」と呼ぶ声がして、ふりかえった先に立っている少年がだれだか、栖庫ナオはすぐにはわからなかった。
だが、ナオが「ナオちゃん」と呼ばれたのは後にも先にもあのときしかない。
「アトルくん?」
すっかり背が伸びてからだつきもちゃんと男の子になっていたから、小さい頃、立ったままのナオにどう抱きついていいかわからず困っていたあの表情をしていなければ、いま目のまえに立つ少年がアトルくんだという確信はもてなかった。
なんでこんなところにって尋ねるまえに安門良アトルが口を開く。
「おれくらいの年の男の子、みませんでしたか?」
気の毒になるくらい慌てたようすだったから、「その年で迷子?」って茶化すことはせず、「見てないけど……」と答えかけて、栖庫ナオははっとする。
「まさか、ミラーハウス?」
そんなことあるかな、と思いながら口にしてみたが、安門良アトルはなんでわかるのかと驚いた顔になって、「そうです」とうなづく。
栖庫ナオが「じつはな……」と言いかけたとき、ミラーハウスの出口のほうから、「アトルくん?!」という小野フランキスカの声がする。
安門良アトルは思いがけないところで思いがけないひとたちに出会えたことをうれしく思ったが、まだじぶんの友だちが消えたままだからうれしさが心配や不安に相殺されてよろこぶことができない。
でも、小野フランキスカが帰還して一分と経たないうちに「安門良!」という声がして、ようやく安門良アトルはほっとする。
「なんだよぉもお〜」って涙目になりながら友だちをこづく安門良アトルに、その子は「ごめんごめん、おれもよくわかんなくてさ」って謝っている。
そういう盛りあがりを隣でみていたから、おなじく泣きたいくらいほっとした手代木マカナは、泣きながら小野フランキスカに抱きつくチャンスを失う。
「心配、したんですからね」とだけ言い、「ごめんね」って小野フランキスカに頭をなでられて、心配していた時間がいっしゅんで蒸発する。
大槌美夜はそのようすをみながら、(もうわたしのなでなでなんて、かなわないなぁ)と思う。それは嫉妬ではなく、心から(よかったね)と思う気持ちで。
「あとで説明してもらうぞ」という栖庫ナオに、「うん、わかった」と小野フランキスカが答え、四人と二人は連れだって遊園地をあとにした。
聞けば、安門良アトルは二日前に都内の私立高校を受験しおわって、今日はその合格発表を見にきたのだという。
友だち氏は受験したわけではないがアトルにつきあってくれて、いっしょにアトルの合格をたしかめて、いっしょによろこんでくれた。
お祝いしようって遊びにきたあの遊園地で、あのミラーハウスに入ったところではぐれてしまい、友だち氏だけ出てこなくなった、ということだった。
それは小野フランキスカの状況とよく似ていたけれど、小野フランキスカはナオ以外のひとがいるまえではあのできごとを話さないようにする。
安門良アトルは小野フランキスカに会えたら話したいことや訊きたいことがたくさんあったが、小野フランキスカ(と栖庫ナオ)以外のひとがいるまえではやめておこうとがまんする。
小野フランキスカは、「アトルくん、合格、おめでとう」と祝って、「春になったらまた来ますね!」と改札をくぐるアトルくんたちを見送る。
あとに残された四人も、手代木マカナと大槌美夜が「今日はありがとうございました」とお礼をのべて家路につき、いつものように小野フランキスカと栖庫ナオのふたりになる。
並んで歩きながら、小野フランキスカが言う。
「ナオ、きょうはつきあってくれてありがとね」
わざわざお礼をいうことでもあるまい、と思いながら、ナオは「こちらこそ」と返す。
小野フランキスカは「ふふ」とちいさく笑い、ちょっと間をおいてから、「さっきのこと、もうちょっとおちついてから話すのでもいいかな」とたずねる。
ナオは、ほんとうはすぐにでも聞きたかった。だけど、小野フランキスカがそういうからにはそうしなければならないという気持ちのほうがおおきかった。
「ああ、いつでもいいよ 話してくれれば」
それを聞いて小野フランキスカは「あは、よかった」と笑うが、それはどこかとってつけたような笑い方で、「わたしもまだ整理できてないんだ」ということばのほうにナオは気をひかれる。
帰り道の分かれ道、ナオはひとつだけふしぎに思っていたことを小野フランキスカと共有しようと思う。
「おまえがミラーハウスから出てこなかった時間に、わたしたちは近くにいた道化師に聞いてみたんだ。青いのとは別のやつ。あれ、おたくの仲間にすすめられたんだけどおかしいんじゃないか、って。そしたらさ、その道化師は青い道化師なんて知らないっていうんだ。そんなやつここにはいない、って」
小野フランキスカの目が栖庫ナオの目と合う。
「だとしたら、あれ、なんだったんだろうな」
言い終えて、ナオは「以上! またな」って手をあげて去ってゆく。
あとに残された小野フランキスカはひとりのはずだったが、ミラーハウスの〈鏡像〉のことが思い出されて、なんだかひとりではない気がした。
(わたしのなかに、もうひとり、わたしのしらないわたしがいる?)
言いようのない気持ちわるさを抱えたまま、小野フランキスカもひとり家路につく。
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