デザイン史(概論)#13 万国博覧会と水晶宮
はじめに(いつもの挨拶)
以前担当していた、大学での講義をまとめて不定期に少しずつ記事にしていっているつもりが、色々寄り道したりしながらぶらぶら書いていく記事になっています。本流としてはデザイン史、デザイン概論、ということで続けていきます。なるべく分かりやすいように、平素に、小分けに書いていくつもりです。よろしくお願いします。今担当している建築史の記事はいつになることやら・・・
前回の記事
こちらの記事は、下の記事の続きになってますが単独で読んでもいただけます。
世界初の万国博覧会〜1851年ロンドン
日本では来年、19年ぶりに、大阪で万博が開かれますが、皆さんは訪れる予定ですか?私はたまたまチケットをもらったので、多分行くと思います。
”万博”って漠然と大きなイベントなのかな?と捉えている人も多いかもしれませんね。実は、世界初の博覧会は、1851年のロンドン万国博覧会(以下、万博)なのです。産業革命によって新しい製品、技術が大幅に進んでいた当時の大英帝国はこの万博で圧倒的な工業力を世界に示すことになりました。そして、このロンドン万博は、大成功となりました。当時の大英帝国の人口の三分の一、ロンドン人口の約三倍の人が来場。当時としてはものすごい人出だったことでしょう。この背景には、印刷技術の発達による宣伝効果や、鉄道や蒸気船などにより人の移動が容易になったことなどがありました。
このロンドンでの成功を皮切りに、各国で万博が開かれるようになっていくのです。s
万博の様子です。これはヴィクトリア女王が開会宣言をしているシーンです。なんとも華やかですね。奥にある大きな木は、公園にあったそのままの木を囲っています。面白い演出ですよね。これについては水晶宮のところで少し触れます。
ヘンリー・コールという仕掛け人
この万博に融資し推進したのはヴィクトリア女王の夫であり、王立技芸協会会長のアルバート公でした。当時、ロンドンの公文書館に勤めるヘンリー・コール(Henry Cole)が、2年前の1849年にパリで開かれた産業博覧会を観に行き、そしてフランスが万博を果たせなかったことを知り、アルバート公にロンドン万博開催を進言したのがきっかけになりました。
このヘンリー・コールという人物、なぜ公文書館にいてアルバート公にそんな提案ができたのか?というところ。公文書館というのは当時は、公的な記録保管所でした。コールは若い頃から絵を描くことが好きでしたが、この記録の仕事、いわば公務員の傍ら、フェリックス・サマーリー(felix summerly)というペンネームで出版・芸術活動を展開していたのです。
その活動には面白いものがいくつかあって、例えば、童話集を発行したり、世界初のクリスマスカードの発売などがあります。
童話集は『ホーム・トレジャリー』シリーズといって、「赤ずきんちゃん」や「シンデレラ」などのお馴染みのお話でしたが、童話の挿絵を、当時活躍していた著名な画家に描いてもらうことで絵本の世界に芸術的な一面を取り入れたのでした。またその仕事を通じて芸術家とのコネクションを広げて行きました。
当時はクリスマス・カードは手書きで送っていて大変だったそうですが、初めてコールが発案し、画家であるジョン・コールコット・ホースリー(John Callcott Horsley)に依頼して印刷発行したのが、こちらのクリスマス・カードです。
水晶宮(クリスタル・パレス)
この万博の会場となったのが、先に紹介した絵画にも描かれている水晶宮(クリスタル・パレス)です。
画像だと少しだけ分かりにくいのですが、半円形のトンネルヴォールトのアトリウムを中心に左右に翼部を伸ばした左右対称(シンメトリー)な、巨大なガラスの建築物なのです。大きさは、563m×124m 、正面ドームの高さ41m というものでした。
どのくらいの大きさでしょうか。
例えば、辰野金吾設計の東京駅の正面(ファサード)の長さが335m で、かつての高さが46m(現在が30mのドーム部)です。こちらよりも高さは10mほど大きく、幅は1.6倍もあり、全てがガラスで出来ています。それはそれは、圧巻でしたでしょう。東京駅(1914年竣工)の60年以上も前にできた水晶宮がどれほど人々をあっと言わせたのか、想像がつくというものです。
今まで誰もみたことがないような全てがガラスの建築物が、そこに生えていた大きな木をも内包し、突如としてハイドパークに現れる・・・人々にとってこの上ない新しい体験となったことでしょうし、それは、中に陳列されている数々の先駆的な品物以上に、ロンドン万博を決定づけるものだったと思います。
展示場のコンペと水晶宮に決まるまで
実はこの展示会場に関しては、前年にコンペが開かれ、245もの計画案が出されましたが、コレだ! というものがありませんでした。そのため、王立博覧会委員会は、独自に計画案を打ち出しましたが、レンガ造を提案しており、巨大で重厚な建築物が不評でした。
そんな中、1950年の7月に、llustrated London News という週間新聞雑誌(週刊誌)にジョセフ・パクストン(Sir Joseph Paxton) の案が掲載され、話題になります。ちなみに、この新聞雑誌は1842年に世界で初めて、イラスト付きのニュースを配信するという新しい試みで創刊され、顧問には、以前紹介した風刺雑誌『パンチ』の編集者であったマーウ・レモンを迎え入れています。
パクストンの案は非常に話題になったようで、新聞の売り上げは13万部(初年度の終わりで6万部程度)となり、この案が採用されることになりました。そして、”水晶宮”=クリスタル・パレス と名づけたのは雑誌『パンチ』でした。
llustrated London Newsには、パクストンの案だけでなく、前年のハイド・パークの敷地の様子から建設工事の様子など、翌年まで細かにイラストによるニュースが掲載されています。人々がどれほど関心を持っていたのかが、分かりますよね。
実際のニュース記事は、ここで見ることができます↓
https://iln.org.uk/iln_years/year/1851.htm
ジョセフ・パクストン
さて、彗星のように(?)現れたジョセフ・パクストンとは一体誰なのか。有名な建築家なのでしょうか。
実は、彼は、農家の生まれの元は庭師、つまり造園家であったのです。15歳の時から庭師として働いていましたが、職場の近くの庭園の持ち主であった公爵からその熱意とスキルとを認められ、公爵の保有するチャッチワースという庭の主任庭師となり活躍します。この庭園は当時美しいと名高いものでした。ここで彼は大きな樹木を動かす技術などの植物を扱うことはもちろん、ロックガーデンや噴水、池など、庭園に関する全般のスキルを磨いて行きました。
1832年、彼が25歳の時に温室に興味を持ちます。パイナップルなどの植物を栽培するため、フレームを工夫し既存の温室を改良し始め、1834年に大グリーンハウスを完成させました。それがこちら↓
その後、彼のスキルはアップし続け、最後には、鉄道会社の経営者にまでなり、建築家、政治家としても名前を残すことになります。
さて、このような経緯を考えると、このような巨大なガラスの箱が出現した理由も少しは理解できたのではないでしょうか。造園家ならではのアイデアがそこには溢れていますよね。また、木を内部に取り込んだ大胆なデザインも、植物に精通した彼ならではの設計だったのだろうと思います。
この水晶宮は、ガラスと鉄骨を用いた大建築物ということで、技術的にも非常に進んだものでもあったのです。
さて・・・後期が始まってバタバタしているうちになかなか記事を完成させることができませんでした。
今度からさらに小出しにしていこうかなと思っています。