デザイン史(概論)#16 ウィリアム・モリス(1)
はじめに(いつもの挨拶)
以前担当していた、大学での講義をまとめて不定期に少しずつ記事にしていっているつもりが、色々寄り道したりしながらぶらぶら書いていく記事になっています。なるべく分かりやすいように、平素に、小分けに書いていくつもりです。
ところでやはり、自分としても力入ったなあ・・という記事はみなさん読んでくれているようですね。そういうものなのかしら。さて、やっとモリスです。ここが本当は出発点だったのですが・・・。今日のモリスは、書き始めたらすごく長くなるので、だからこそ記事の更新が止まってたし、どこまでどんなふうに書いたらいいのか迷いながら書き始めます。自由に書こうと思います。
前回の記事
こちらの記事は、下の記事の続きになってますが単独で読んでもいただけます。
近代デザインの父と呼ばれたモリス
今ではあまりにも有名なウィリアム・モリス。ほとんどこの顔で知られていることでしょう。ふむふむ、いかにも”父”であろうなと。
あなたがその名と顔を知らなくても、少しでもデザインに興味がおありならば、下記の絵柄はきっとどこかで見たことがあるのではないでしょうか。
このあまりにも有名な柄は、「いちご泥棒」という名前がついたモリスの作品です。壁紙や椅子の張り地、カーテンなどのインテリアファブリックからアパレルまで、最近ではセリアなどの100円ショップでモリスの柄が気軽に手に入るようになりました。(モリスデザインとは書いていません。そして私の研究室のゴミ箱やメモ帳や色々、増えていっています。)ただのボタニカルデザインだと思っていて素敵だなと思う人も多々いらっしゃるでしょう。私の職場の事務員さんもいちご泥棒の柄のカーディガンを着ていらっしゃって素敵だったので、モリスのカーディガンですね!とつい言ったら、「???」の顔をされました。知らずして持っている。こんな日が来ようとは彼は予想できていたでしょうか。
しかし、彼がなぜ近代デザインの父なのか、いつしか有名となった肖像とこの立派な後世の歴史家がつけた肩書からは想像もつかない人生を送ったことは意外と知られていません。
教科書的なモリス
ちなみに、普通のデザイン史 というのは大抵、このウィリアム・モリスから始まることが多いように思います。確かに、モリスのあとをついで若手デザイナー達がギルドと呼ばれる組織を立ち上げ、それらが近代運動の一つである、アーツ・アンド・クラフツ運動として認識されるようになったわけで、この、モリスに続け〜!の精神から近代デザインの父という呼び方も出てきたのだろうと思います。
ネットで調べると、モリスはイギリスの偉人であり、先の近代運動を牽引したのだと。あたかもアーツ・アンド・クラフツ運動は、モリスが率先して行なった近代運動のように思いますが、彼自身が宣言をして明確な運動を起こしたというわけではない。と言ってしまうと語弊がありますが、少しそんな積極的なものとは違って、自身の活動そのものが若い人たちへと広がっていった、そんなイメージだと思います。
ここでモリスについて時系列に沿って詳しく語るのはやめようと思います。なぜなら彼はあまりにも有名で、いろんなところでモリスについて知ることができるからです。なので時系列のモリスについて知りたい人はまずはwikipediaを読んで、いろんな記事を検索してみてください。そして彼の人生を知るにあたり特におすすめなのは、山田五郎さんのyoutubeモリスの回です。本当に面白いです!それだけでなく、彼にまつわる逸話は全部面白いです。
確かに彼は時代の分岐点に立っていたのだと思います。過去から引き継がれてきたもの、建築との関わり、デザインの始まり、美術運動との関わり。そのようなものの交差点に確かに彼は立っていました。
そういうわけで、教科書的にいえば、ウィリアム・モリス(WIlliam Morris: 1834-1896)は、イギリスのデザイナーであり、詩人であり、社会主義思想家であり、のちのデザイン界に大きな影響を与えた人、ということになります。
中世回帰〜ゴシックへの憧れ
彼について語る時、欠かせないことの一つは、ゴシックからの影響です。ゴシックって何?という人もいるかもしれませんが、これは中世を通じてヨーロッパ世界に広がったゲルマン人の建築様式でもあり、地域差はあるものの、まずは古典系の様式と相対するものとしてざっくり理解していいと思います。
この時代、中世回帰の流れがありました。もともとゴシック建築は長い間ヨーロッパに多く建てられましたが、ルネサンスの時代になってラファエッロをはじめとしてゴシック批判が噴出してきます。それまで廃墟と化していたローマの建築について調査と復原を命じられていたラファエッロは、教皇レオ10世に宛てた手紙に、蛮族(ゲルマン人)によってローマがことごとく破壊されたことを嘆きつつ、辛辣なゴシック批判をしています。(え?画家のはずのラファエッロは建築も担当していたの?と驚かれると思いますが、建築も絵画も彫刻もできるのがルネサンスの天才なのです)
つまり、ゴシックは野蛮な様式であると。正統なるは、古代ローマの古典様式であると。簡単にいえばそれがルネサンスの一面でした。
そしてローマは廃墟から華々しく蘇りました。そしてこのルネサンスの流れはヨーロッパ中に広まり、新しい建築様式が認められていきます。そんな中、ゴシックは、汚名を着せられたまま、時が流れます。
さて、数年前に焼け落ちたフランスのパリにあるノートルダム大聖堂も立派なフランス・ゴシックの建築ですが、これも一度修復はなされていましたが、結構廃墟化してきていたのですね。それが19世紀になって、修復しようということになったわけです。
実は19世紀というのは建築にとって非常に大きな転換期だったのです。この時代に、ナショナリズムも高まり、ゲルマン人の様式である中世の様式=ゴシックが再評価されてきます。いくつかの文脈がありましたが、その流れの一つが先に書いたノートルダムでもありました。そして、ゴシック再評価を推進した人の一人が、ジョン・ラスキンでした。彼の著書『ヴェネツィアの石』や『ゴシックの本質』の二冊が学生時代のモリスがめちゃくちゃハマった本だったのです。
当時オックスフォード大学の学生だったモリスは、同じ大学の友人でのちに画家となる生涯の親友エドワード・バーン・ジョーンズと共にこの本にハマり、ゴシック建築をめぐる建築旅行へ出たり(彼は父からの遺産がたっぷりあって、お金持ちだったのです)、聖職者になることまで夢見ていました。
そして実際にラスキンと出会って色々と人生が動き始めます。この辺りからの人間関係や活動については、もう本当に激動なのでぜひ山田五郎さんのyoutubeをみてください笑 笑じゃない泣けてきます・・・
さて、なぜゴシックについてここで取り上げたのか。それがこの後重要になってきます。
長くなってきたので続きは次回!
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