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アドルフ・ロース「装飾と犯罪」より〜なぜ建築家の建てたものは景観を破壊してしまうのか?〜

センセーショナルであった。
アドルフ・ロースは、”装飾は罪である” と言ったということで
非常に有名な本である。

大抵の人は、建築史の授業で習ってタイトルは知っている、だろうと思う。
しかし、実際に本を読んでみると、これがかなり面白い。

なぜ装飾が罪なのか?は、ぜひ読んでもらいたいところだが
今回は別の箇所で面白いと思ったところを一つ・・・。

「建築について」
山岳地方のある湖畔にあなたをお連れしたとしよう。空は青く、湖水は青緑色に澄み渡り、そこでは何もかもが深い平和の静けさの中に包まれている。山々と雲は湖水にその姿を映し、湖畔に立つ家々、農家の納屋それに教会なども同じように湖水にその姿を映し出している。それらの建物は、人の手によって作られたものではないような佇まいを見せている。それらは山や木や雲やそれに青空と同じように、まるで髪の手によって創られたかのようだ。そして全てのものが美と静寂の中に息をひそめて存在している。
 ところが、あれは何だ?この平和な静けさを破るものがある。必要でもないのに、やたらと叫びたがる金切り声に似ている。人の手によらない、神の手になる農家が散在する中に、一軒の別荘が立っているではないか。良い建築家か、あるいは下手な建築家の手になるものか?それは私には分からない。私が言えることはただ、平和で静かな美しい景観が損なわれてしまった、ということだ。

装飾と犯罪「新装普及版」〜建築・文化論集〜 アドルフ・ロース著 伊藤哲夫訳 中央公論美術出版 p117



農民たちや船大工が作る建築物や船は、どのように作られるか。

この農民は、自分と家族とそして家畜のために家を建てようとしたのだが、それもうまく行った。隣の家や、それに自分の祖先の家の場合と全く同じようにうまく出来上がった。どんな動物でも、本能に従って自分の巣家を巧みに作り上げるのと同様である。そうして出来上がった家は美しいか?無論、薔薇やあざみ、また馬や牛がそうであるように、家は美しい。
そして再び私は次のように問いかける。「良し悪しを問わず建築家というものは、何故、湖の景観を破壊してしまうのだろうか?」それは建築家とは、ほとんどの都市生活者と同じように、文化を有していないからだ。文化を有する農民たちの確信といったものが建築家には欠けているからだ。都市生活者とは根無草だと言って良い。
 私がここでいう文化とは、人間の内面的なものと外面的なものとの均衡ということを言うのであって、これ無くしては理性的な思考と行動は到底不可能というものだ。

同上 p118-119

非常に辛辣で鋭いと思わないだろうか。
本はこの調子で色々とロースなりの論が展開されるのである。

さてこれを読んで、いろいろな建築物が思い浮かぶ・・・・。

学生の時、初めてイタリアに行った。
古代の建築物は、神の手になる側の建築物だとあの時のファーストインプレッションで思った。それは超自然的に建っているという感覚。

在学中に、オープンデスクという制度を利用して、夏休み、都内の某有名建築事務所に手伝いにいった。これが有名な建築家様ですか・・・
そこで何週間かやってみて、建築のアトリエだのそういう事務所に行くのはやめようと思った。

ここには、私が建築について考えれば考えるほど、直感的に行き当たるヒントがいくつか散りばめられている。
それは必ずしも全部に賛同の気持ちは抱けないとはいえ、頷かざるを得ないロースの視点がいくつも見出せる。

それはものすごく新鮮な気持ち。









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