「見つかった息子」(自作曲)のX投稿と楽譜
ヘッダー画は、レンブラントの「放蕩息子の帰還」(中心部分)です。
画全体はこのようになっています。
今回は、「見つかった息子」(自作曲)を自分で歌い、fm.standとXに投稿しました。歌詞は、聖書新共同訳 新約聖書 ルカによる福音書15:21~24です。
歌詞となった聖書を引用します。歌詞として使わなかった部分もカットせず掲載します。
この聖書箇所から、説明の部分を省いたのが、今回のテキストです。
()内は歌いませんが、誰の言葉かわかるようにしました。
元々この箇所は、「放蕩息子のたとえ」として有名です。神様の深い憐れみがこのたとえ話に込められています。
せっかくなので、たとえ話全体を読んでみましょう。
自作曲の紹介からはかなり脱線しますが・・・
この物語の登場人物は3人(家の僕とかその他の人は考慮しなくてもいいでしょう。)。父親、兄と弟。今回は、兄の事は煩瑣になるので割愛します。
この家族は相当裕福な家だったのでしょう。弟息子は財産の生前贈与を求めます。そもそも、なぜその「満たされた」生活から、弟は外へ出たいと思ったのでしょうか?
全財産を使い果たし、豚の世話(ユダヤ教社会ではタブー)をするまでに落ちぶれた弟息子。今日の社会で言えば、違法な仕事に従事する闇バイトをやっている人あたりに相当するのでしょうか。ただし、それでも「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」(19節)とあるから、相当追い詰められていたのでしょうね・・・
18節から19節に、彼が実の父の前で言おうとしていたことが書いています。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」
最後の「雇い人の一人にしてください」という言葉は、実の父の前で言うセリフからは省かれています。それにしても、この言葉を言おうとした彼の心境に、深い闇が見えるようです。どうして、父親の愛をそこまで信じられなくなったのでしょうか・・・
新共同訳で、父の心境を語る「憐れに思い」(20節)というところは、原文の逐語訳に近い(はず)岩波書店の「新約聖書翻訳委員会訳」では、「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られ」と訳されています。
痛みを覚えるほどの激しい愛・・・
放蕩息子のたとえ、近代の文学者では、ジッド、リルケ、カフカが取り上げているそうです。リルケのは、彼の代表作「マルテの手記」でだいぶ前に読んだことがあります。
さて、長い寄り道でしたが、ようやく曲の紹介に入ります。
出だしは弟息子のセリフから始まります。しかも、いきなり臨時記号(♮)。弟息子の部分での臨時記号は、彼の良心の痛みを表していると思います。弟息子の部分は、ぼそぼそと歌うので十分です。
彼が用意していた、「雇い人の一人にしてください」(ある意味、彼の最後のプライドなのかもしれません)というセリフを言わせずに、圧倒的な父の愛が、傷ついた彼を包み込みます。調がニ短調から、ヘ長調に変わります。
『急いでいちばん良い服を持って来て(服はぼろぼろだったのでしょう)、この子に着せ、手に指輪(=息子である、という事の印。権利の回復)をはめてやり、足に履物を履かせなさい(履物すらなかった・・・)。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』
「手に指輪をはめてやり」というのをわかりやすく映像化したのが、映画「ベン・ハー」の下のシーンです。
ベン・ハーは元々ユダヤ人の裕福な貴族の息子でしたが、友の陰謀により、反逆罪に問われ、ガレー船を漕ぐ奴隷にまで落とされてしまいました。
ガレー船が戦闘によって沈没される時に、ローマ海軍の総司令官を助けたことにより、総司令官の養子となります。その時に、印として指輪をもらいます。ユダヤ貴族以上のすごい権利回復を表しています。
父親の部分は、サンタのおじさんみたいな慈悲深さで歌うとちょうどよいでしょう。
それにしても、想像をはるかに上回る父(なる神)の愛・・・
私は、この曲が自作曲ながら、「♪この息子は・・・」のところを歌うたびに、新たな感動を覚えます。
神様にとっては、過去、私たちが何をしてきたか、何をしてこなかったか、よりも、今、神様のもとに立ち戻っている、その事実がうれしいのです!
「わたし(神様)の目には、
あなた(直接的にはイスラエル、間接的には私たちすべて)は高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4新改訳第三版)
と神様は言われます。
神様の目には、私たちはものすごい高価な宝石よりも、価値があるのです!「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも
大きな喜びが天にある。」(新約聖書 ルカによる福音書15:7新共同訳)
いつ頃作曲に至ったのか、忘れてしまいましたが、たぶん2000年前後くらいだったのでは、と思います。
楽譜を公開します。