個人映画作家
昨日は映画人を養成する国立の映画専門大学の必要性について書いた。
今日は、個人で映画を作る人がどう学ぶかを考えてみたい。
映画は集団の芸術である。だから、共通の言語である映画の文法を学ぶ必要がある。それを知らないと、脚本で他のスタッフにイメージを知られられないし、現場でも指揮が出来ない。
しかし、個人映画の制作に関してはそれは必要ないと考えている。もちろん、脚本の書き方やキャメラワーク、照明や録音などに関しての基礎技術は知っているものとする。だが、ここで商業映画の模倣をする必要はない。というか、カネがないので商業映画の模倣は出来ない。
今はスマートフォン一つで映画を作ることが出来るいい時代になった。私がアマチュアの時は、8mmフィルムを使って撮っていた。カネはかかるし、現像所から戻ってくるまでどのように写っているか確認できない。編集も単純な切った貼ったくらいしか出来ず、今のようなエフェクトは掛けられなかった。
このような恵まれた時代に生きているので、恐れずに撮ってみて、試行錯誤してみると良い。もしかすると、その人自身の映像表現を発見できるかも知れない。
でも、ただ撮るだけでは能がない。やはり、先人たちが残した表現方法や技術は一通りマスターするほうが良い。そして、型どおりに作れるようになったら型を崩して撮ってみればいい。最初から型を崩しても、それはただのアホだ。
私が今一番悩んでいるのは、映像表現の難しさだ。ストーリーはいくらでも思いつくが、それを映像で見せる技術が私には足りない。
映画監督を目指すものに対して先人たちは必ずこう言う。「脚本を書け」と。脚本は文学ではなく、設計図だ。映像表現そのものだ。だから、脚本が書けなければ監督にはなれない。これは商業映画でも個人映画でも同じだ。
私は20代の時に脚本を書くことを諦めた。だが、ここで奮起してもう一度脚本を書いてみようと思う。
自分の頭の中にあるイメージが映像になる。こんな快感は他にはないかも知れない。私は再び、この熱病に冒されてしまった。