悲運花火師
打ち上げ花火というと「たまや」というかけ声がおなじみだ。
しかし、このかけ声には悲運の花火師の悲しい物語がある。
時は享保18年(1733年)5月28日、現在の隅田川で川開き花火大会が行われた。この花火大会で脚光を浴びたのは、名人花火師 鍵屋弥兵衛、鍵屋の六代目だ。
鍵屋は、技術と商売のセンスで江戸一の花火師と言われていた。
いつの時代も、名人には天才というライバルが存在する。そのライバルこそが、鍵屋で番頭をしていた玉屋市兵衛だ。市兵衛は暖簾わけで玉屋を開業する。文化5年(1808年)のことだ。
名人 鍵屋と天才 玉屋は、この後35年間、ライバルとして切磋琢磨しあった。隅田川の花火大会では、玉屋が上流を、そして鍵屋が下流を担当する大競演となった。
花火が打ち上げられるたびに、江戸っ子たちは、玉屋の花火に対しては「たまや」、鍵屋の花火に対しては「かぎや」と声をかけた。ちょうど、歌舞伎で猿之助が登場すると、「澤瀉屋」と声がかかるのと一緒だ。
そして、今日のその時は、天保14年(1843年)のこと。火を扱うプロ中のプロである玉屋は、あろう事か失火を起こし、大火災となった。玉屋市兵衛は江戸から追放され、花火師を廃業する。たった35年間の花火師人生は、煙のように消えてしまった。
しかし、私が悲運の花火師と思うのは、失火で廃業した玉屋ではなく、鍵屋だ。
たった一代で消えた花火師は、浮世絵にも度々描かれ、後生に語り継がれているし、現在でも「たまや!」の声がかかる。
しかし、今もなお、伝統を守り続けている鍵屋に対して声をかける人は少ない。これを悲運と言わずしてなんと言えばいいのだろう。
現在鍵屋は、15代 天野安喜子さんが伝統を守っている。
玉屋と鍵屋、ともに日本の花火界に多大な功績を残した偉大な花火師。
もし、花火大会に行く機会があれば、玉屋だけではなく、鍵屋の功績もたたえて「かぎや!」の声をかけてみてははいかがだろうか。