#1. サン・ジャック・ドゥ・コンポステルの道を歩く ~その1~
歩くきっかけと迷いまくった青春時代
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やる気のない哲学学生
2010年。当時私は29歳。
フランスのブルターニュ地方にあるレンヌという街で、大学生をやっていました。
哲学を勉強していて、博士課程にいたのです。
博士過程に在籍しているって言うのはかっこいいんですけどね、とにかく全然勉強していなくて、本当に毎日無為な日々を過ごしていました。
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私がフランスにやって行ってきたのは、2004年。23歳の時でした。
日本の大学、文学部哲学科を卒業し、一年間アルバイトをして、旅費を貯めました。
1年目は語学学校に入りました。
楽しかったですね。
なんか世界中から来ている人たちと、友達になれて。
今でもその何人かとは Facebook とかで繋がっていますね。
語学学校で勉強していて思ったのが、語学学校でフランス語を上達させるのは限界があるということでした。
言葉って道具ですよね。道具の使い方をどんなに習ったとしても、その道具を実際に使っていろんなことをしてみないと、その道具を使いこなすことできません。
言葉もそれとまったく一緒だなと実感したです。
フランス語「を」、学ぶのではなく、フランス語「で」、何かを学ばなければいけない、と思ったんです。
そこでもう一度、大学に入ることにしました。
海外で正規の大学生になるっていう事は、私は憧れのひとつだったので、何の疑問もなくチャレンジしたっていう感じですね。
ここでも、地方都市のレンヌで良かったなと思うんですけども、何の問題もなく大学からアクセプトとしてもらいました。
留学生がたくさんいるパリだったらもしかしたらもっと難しかったかもしれないです。
入学した先は、 レンヌ第一大学の哲学部の3年次でした。
フランスの大学は3年制なので、学士の最終学年にあたります。
私は日本の大学で文学部哲学科を卒業していたので、いきなり大学院から入ることもできたんと思います。ただ学部の授業も覗いてみたかったし、いきなり修士論文を書くのも大変だと思ったので、学部の3年から入ることにしました。
ただ、これがめちゃくちゃつらかったです。
とにかく言葉がわからない。
教室の隅で泣きそうになっていると、友人の一人が僕のノートをコピーしな、と言ってきてくれました。
彼は、先生の話すことを速記するようにすべてノートするという技術があり、自分のノートをいつも私にコピーさせてくれました。
彼のノートのコピーを見ながら、録音した講義を聞きなおし、全部日本語に訳していきました。
2時間の授業を聞くのに、半日かかりましたが、リスニングはこのおかげでだいぶ伸びました。
彼のおかげで学士を取り、その後、特に何も考えず、そのまま大学院修士課程と進みました。仲の良かった生徒はほとんど同じように修士に進みましたから、なんか、それが普通って感じでした。
なんとなくそれなりに勉強して、修士号を取ることができました。
クラスメイトみんなそうだったんですが、修士号をとると、今後の仕事どうしようかなってみんな考え始めるんですね。
だって哲学の修士号なんてもっていても、人生は豊かになるかもしれないけど、フランスで何の仕事ありませんから。
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修士号を取った後、クラスメート達はいろんな方面に自分の可能性を探っていきました。
一人は、本屋になりました。
一人は、公務員試験を受けて地方公務員になりました。
一人は、公立学校の国語の先生になりました。これも国家公務員試験ですね。
一人は、 ジャーナリストになるために、ジャーナリスト学校に入り直しました。現在はジャーナリストで活躍しているはずです。
私にノートを貸してくれていた最も優秀だった友人は、哲学の教師になるための国家試験を受けて、合格し、その後、博士課程に進みました。現在は、著作もあり、大学で教鞭をとっておられます。活躍されていて、素晴らしいかぎりです。
私は全く自分が将来どんな仕事につくのか分からなくて、今は自分が大好きな哲学をやることに集中する事にしました。
フランス語ができて、そして哲学の博士号があれば、何かしらの職はあるのではないかっても簡単な気持ちでね、博士課程に進みました。
完全に、甘く見ていましたね。
博士課程にいくってことは、研究者になるということですから、研究者になるための覚悟が必要でした。
特に何も考えず、なんとなく博士課程に進んだ自分は、覚悟も何もなかったな大馬鹿と思いますね。
今までは、周りがやってることを真似してればよかったですが、今後は独り立ちして自分の研究を組み立てて行かなければいけません。
もちろんそのために指導教官がいるんですけども、研究者の卵として自主的に研究できるような人物じゃないと研究なんてできませんよね。
授業に出て、そこで言われたことを覚えて、ちゃんと覚えてるかテストを受ける、その上のレベルには全然自分は行けなかったですね。
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学校に行く必要はないんですが、ひとまず大学図書館に行って、哲学書の前で座ってるんですけども、どうも頭に入ってこない。
全然進まないし集中できない。
その都度興味深いテーマは出てくるんですけど、自分が考えているテーマは広がるだけで、収集不可能になっていくって感じです。
しかし、論文って逆で、一つの問題をより深く深く掘り下げていかないといけないですよね。
私は、掘り下げる代わりにどんどん広がって、テーマがぼやけてくるって感じでした。
そのうち図書館に行かなくなって、自分の部屋の机に座るようになります。
哲学書を目の前にして自分の机に座ってるんですが、とてつもなく眠くなるんですよ。
自分の部屋ですから、すぐ後ろにベッドがあります。
今日もできないなと思ってベッドで寝てしまう。
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無為に過ぎる時間と、話にならなかった発表
体力はありあまっていたので、週3回柔道の稽古にいっていました。
フランスは市でやってるスポーツクラブチームがいっぱいありまして、そこまでお金をかけずにスポーツをすることができます。
そして、生活費を稼ぐために週3から週4日ぐらい日本料理屋でバイトもしていました。
1日ぼけーっとしていて、夕方になると柔道の稽古に出かけて、家に帰ってきて、また今日1日何もできなかったなーって言う時間の繰り返しですね。
全く何もやっていなかったわけじゃないんですけども、
色々と本とかよんで、メモはとっていましたが、 論文が進んでいるとは、決していえませんでしたね。
1年とか2年とか、そんな状態であっという間に時間が経ってしまいました。
指導教官もすごいいい人で、私のこと心配してくれて、ちょくちょくメールもくれました。
悩んでるんだったらいつでも話し聞きますから、話しにおいでってメールで書いてくれるんです。
けどなんにもしてない自分がいて、なさけなすぎて、メールに返信することもできませんでした。
メールに返信しない方が、失礼なんですけども、それさえも出来ませんでしたね。
それでも、あるとき、指導教官と話し合って中間発表することになりました。
何人かの教員、修士課程の学生と博士課程の学生が集まって、私の論文のテーマと、その切り口などを発表しました。
私の2年間の仕事の総決算みたいな感じだったんですけども、これがもどうしようもなくお粗末なものだったんですね。
おそらくですね、ちょっと思い出すのも辛いんですけども、私が発表した内容は、高校生がつくる小論文ぐらいのレベルだったじゃないかなと思うんですよ。
発表がおわったあと、他の博士課程の学生の失笑が聞こえたんですよね。
今思うと、私の勘違いかもしれないんだけど、 この瞬間に、現在の私に哲学で博士号を取ることは不可能だって確信しました。
なんかもう完全に打ちのめされてしまったんですね。
もちろんショックだったんですけど、けど同時にやっぱり無理だなっていう感じでしたね。
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やっぱりこの時期が精神的にも結構きつくて、生きる目標と言うか、人生の目標がなくなってしまったんですよね。
その時点で既に7年 フランスで留学していたことになります。
フランス語できるようになった。
日常会話も困らない、ちゃんとした文章もある程度かけるようになった。
けど、だから何?ですよ。
1、2年でこれを達成したのなら、文句なしにすごいですが、7年かけてこれだったら、なんだこれだけ?ってなりますね。
日本に帰りたいなぁ。
でも、日本に帰って何ができるかなって思ってましたね。
そして、この問いが私に常に襲いかかってきました。
「そこまでフランスに興味を持って、そこまでフランス語ができるようになって、なんでフランスで仕事しようと思わなかったの?」
日本に帰って、こう聞かれるのがすごいこわかったんです。
というのはこの質問に答えるすべを持っていなかったからです。
フランスで何かしらの教師になりたかったけど、公務員試験はフランス国籍がないと受けられないとか、
フランスで魅力的な仕事は僕にはなかったとか、
いろんな言い訳を言うことはできましたけど、僕の中ではそれはみんな言い訳に聞こえましたね。
っていうか、実際言い訳でした。
こんなつっこんだ質問する人なんて、もしかしていないかもしれません。
けど自分の中の自分が、常にこの質問を投げかけてくるんですよね。
「そりゃ、フランスで仕事したいと思ったよ。
けど、フランスで仕事するのは労働ビザがないと無理じゃないか!
労働ビザを取るの不可能だったと思う。」
「だったと思う?
思っただけ?何もアクション起こさなかったの?7年もいて?」
「けどチャンスがなかったんだ。」
「どんな仕事しようと思ったの?
そのためにはどんな努力をした?」
「…」
「結局何にもアクション起こさず、ただそう思っただけで、帰ってきちゃったの?」
どんどん追い詰めてくるんだよね。
「これこれの仕事をしようとして、そのためにこれこれの努力をしたけども、最終的に縁がなかった。やることやって、やり切って日本に帰ってきた。」
多分、最低限こう言い切れるような行動をおこさないと、私は日本に帰ってからものすごくしんどい精神的な生活をしないといけないなと思いました。
「なんで、あの時挑戦しなかったんだろう?」
今このまま日本に帰ってしまうと、そんな十字架をずっと背負って生きていかないといけないなーっていう感じがしていました。
これは私がのほほんと、海外での留学生活をしていた代償というか、けじめのようなものだったんだと思います。
これは、もちろん留学した人はそうすべきだ、とかではなく、自分の、ものすごく、個人的な問題です。
哲学で挫折してしまった以上、 もう一回フランスで働くことに関して全力を尽くす。
それで無理だったらしょうがないじゃない。
日本に帰るため、自分が納得できる言い訳を達成するために、自分の中でフランス留学の次のステップが始まりました。
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ガイド資格との出会いと覚悟
じゃあいったい自分には何ができるか。
相変わらず哲学の博士課程に在籍しつつ、勉強はほとんどせずに、レンヌの街中を目的もなくい歩き回るというかなりヤバい生活を送っていました。
歩くルートってのもだいたい決まってましたね。
家を出て、タボール公園というレンヌ市内でも有名な美しい公園を横切って、その後、リパブリックって言う共和国広場まで行く。それからレンヌ駅の方に行って、電車来るのを駅舎から見ていたりしてましたね。
別にね鉄道マニアとかでもなんでもないんですけどね、
今思い直すと、かなりやばいですね、私の生活。
家にいても煮詰まってしまうだけだから、せめて体を動かしておきたいのがあったのかもしれません。
以前の記事でも書いたんですけども、このレンヌ駅で、日本人観光客のグループをたまたま見かけたんです。
添乗員さんが、「こちらですよ~」と言ってですね、旅行者の皆さんを引率していたんですね。
「これだ!」
て思ったんですよ。
自分が今まで体験したフランスの素晴らしいことを、紹介しながらお金をもらえる。
そして旅行者の方には喜んでもらえる。
最高じゃないですか。
そこで初めて旅行業というものに興味を持ち始めたんですね。
今思うと、私が見たのは日本からお客様を連れてきていらっしゃる添乗員の方だと思います。
旅行の日程を管理する添乗員の方と、現地の観光地で歴史などの説明をするガイドというのは、実は違う職業なんですが、そんなことは当時の私には分かりませんでした。
とにかく添乗員さんを見た時に、ガイドになろうと思ったんですね。
そこでガイドというものを調べてみました。
フランスのガイド資格:
ガイド資格というのはフランスでは国家資格であることがわかりました。
そして幸運なことに、その国家資格を取るためにフランス国籍は不要ということもわかりました。
フランス国籍を持っていない自分でもチャレンジできる資格ということが分かったんです。
そしてその資格は、フランスの大学で1年間ガイドコースというものに通うととれることがわかりました。
ただしガイドコースに入るためには、
少なくとも大学で2年間、歴史、美術史、あるいは外国語を勉強していなければいけませんでした。
私の専攻は、哲学です。
入っていません。
ということは、私がガイド資格を取るためには、少なくとも3年かかるということです。
当時、29歳です。
ガイド資格が最短で取れて32歳。
もしそれで留年してしまえば、働き始めるのはもっと遅くなるでしょう。
3年。
長いと思いますか。
それとも短いと思いますか。
今思えば、何かを習得するためには、3年は必ずしも長いとは思いません。
しかし当時の私にとって3年はとても長く見えました。
挫折した学生を、もう3年間やらなければいけない。
その中で私は三十歳を超えます。
いわゆる日本でいう社会人経験もなく、フルタイムで働いた経験もなく三十歳を超えてしまいます。
焦りがありました。
その時点で私は、日本の大学を含め、9年間大学に通い続けていました。
大学にいた期間だけで、義務教育を超えていますよ。
なんだか、笑えてきました。
この時点で相当、経歴としては道を外れてますよね。
だったら9年間も12年間も、たいした変わりはないな、と思いました。
むしろ、12年間大学生だったってほうが、面白いかも!
どんなに悩んでも、根本的に能天気で楽観的。
多分、そんな人間なのだと思います。そんな人間でよかった。
3年間、チャレンジしようと決めました。
この3年間で、また挫折してしまったら、僕は自分に納得して日本に帰れると思いました。
やることやったんだからしょうがないじゃん、と自分に心から言えると思いました。
そんなふうにして、 2010年9月から、レンヌ第二大学の美術史学部の学部1年次に入りました。
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美術史学部入学
フランスの国立大学は大学入学資格あれば本当に簡単に入ることができます。
しかも当時の国立大学の1年間の学費はだいたい3万円ぐらいでした。
正規の学生になると住宅補助が出ます。僕は月に1万円ぐらいもらっていたと思います。
大学の学費は、3ヶ月で元を取れるという。。。。
後は日本食料理屋で、残りの家賃と、自分の食費だけ稼げれば生活は細々とですが続けることができました。
現在では法律が変わってしまって、 EU圏以外の国籍をもつ学生は、その10倍ぐらいの学費が必要になってしまいました。これに関してはかなり反対もあって、今でも非EU圏の学生から学費を徴収しないと表明している大学もいくつかあります。
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大学1年生ですから、当然の如く、クラスメイトの大半は、ついこの間まで高校生だった18歳、19歳の若者たちでした。
そして美術史ですから、クラスの9割が女性でした。
もし日本だったら、年齢差もあるし、向こうも気遣って敬語使ったり、ちょっと距離感があったと思いますけど、そういうところがさすがフランスというか、基本的に、十歳ぐらい年齢が違うんですけども、本当に気さくに友達付き合いしてくれましたね。
距離を置くことなく、フランス語が分からないような顔してると、「じゅんじ、大丈夫?(Ca va, Junji ?)」と声かけて、ノートみせてくれたりしていました。
本当に、多くのクラスメイト達に助けてもらいましたね。
一緒に学食でご飯食べたり、普通に友人になりました。
それこそ、恋バナしたりね。
僕に年齢を聞いて、29だよ、っていったらすごいびっくりしましたけどね。
「まじで!じゅんじ、おじんじゃん!Vraiment ? Tu es vieux, toi ! 」
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美術史の勉強はものすごく楽しかったです。
そもそも絵の見方とか、彫刻の味方とか、建築の見方とか、いままでまったく知らなかったことに気がつきました。
今までも美術館行くの好きだったんですけども、いったい何見てたんだろうって思いましたね。
そしてこの知識があって、美術館行ったら、何倍楽しいだろうって、と思いました。
この時の思いが、現在のYouTubeの美術解説になっています。
美術史っていう学問に出会って本当によかったと思ってるし、レンヌ第二大学の先生方の講義が素晴らしいものばかりだった。
もちろん、個人的には退屈な授業もあったんですけど、大多数の授業はものすごく面白かったです。
ただそれと同時に、やっぱり3年は長い。
特に美術史1年生の時がものすごくしんどかったです。
その一年が終わっても、まだ目の前にまるまる2年のこっていますから。
ゴールは、ずっと先に見えました。
そして、僕にノートを貸してくれたり、一緒に昼食を食べてくれたりするクラスメイトの友人たちとくらべ、自分が10も年上っていうことが、時々ものすごくプレッシャーになっていました。
1回社会人になって、改めて大学に戻ってくるんだったらまだしも、僕はそういうわけじゃなかったし。
自分が10年、周りから遅れてしまったっていう、焦りを常に感じていました。
そして、自分が博士過程にいたのに、 今は高校を卒業したばっかりの子達と机を並べなきゃいけないっていうことに自分のプライドも傷ついていました。
今まで博士課程にいたんだって言うと、みんなすごいねって言ってくれたけど、
美術史の学部の1年だと言ったら、あっそう、で終わりですから。
そのあと、「あなたの人生おわってるね」って言われているような気がして。
仲の良い友人達は、哲学もったいないじゃない!止めました。
今から美術史をやったって遅いんじゃない?
と親切心をもって言ってくれる友達もいました。
みんな親身になって僕のことを心配してくれていたんです。
社会的地位を失ってしまったっていう感じがしました。
社会的地位なんて何も持ってなかったんですが、そもそも。
ただそういう勘違いがあったんですね。
本当にくだらないプライドだったと思います。
だから、こんなとこにいていいんだろうかっていう葛藤を、学部の一年生の時に特に強く思いました。
3年長いなぁ。
美術史やっても意味ないかなぁ。
これも時間の無駄かなぁ?
やっぱ諦めようかな。
ガイド資格とれても、就職できる保証なんてないしなぁ。
学部の1年生の時は、本当にこの辞めたくなる衝動との戦いでした。
自分が進んでる方向に自信が持てない。
むしろ間違ってるかもしれない。
間違っているんだったら早く辞めた方がいい。時間の無駄になってしまうから。
そして現在の状況は自分のプライドが傷ついている。
辞める理由の方が多いんですよね。
そんなこんなで一年がなんとか終わろうとしていました。
美術史の勉強はもう本当に面白かった。
特に高得点なわけではないですが、普通に平均点を取って1年生をクリアすることができました。
哲学でフランス語は慣れてるし、大学のテストも慣れていましたので、大学の勉強自体をそこまで負担に思いませんでした。
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道が呼んでいる
そこで夏休みが来るんですよね。
大学だから3か月以上あるわけです。
レストランは、2週間ぐらい休みになります。
夏休みどうしようかなぁ。
大学の後期の試験も終わったころ、特に仲良かったわけじゃないんですが、ある女の子と夏休み何するのかっていう話をしたんです。
彼女は、サン・ジャック・ドゥ・コンポステル(サンチアゴデコンポステーラ、ともいう。これはスペイン語発音)の道を歩くっていうんですよ。
僕は全く何をするのか知らなくて、それなに?って聞いたんです。
そしたらそれは巡礼の道っていうもので、 フランスから出発してスペインの端っこまで歩くっていうものでした。
それを聞いた時に、僕は、
歩いてみたい、
と思ったんですよね。
何か心がときめいたと言うか、琴線に触れたと言うか。
「あ、それいいかも」って思ったんです。
彼女に、誰と行くのって聞いたら、多分一人っていうんですよ。
「僕も一緒に行っていい」って確か聞いたと思います。
うん、いいよ。一緒に行こう。
彼女はあっさりと答えました。 そして、こう続けました。
「歩きたいと思った時、それは道があなたを呼んでいるんだよ」
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僕の中で彼女の顔は覚えてるんですけども、名前が出てこないんですよね。
彼女と出会ったのは、すでに1年生の全ての授業終わっている、夏季休暇に入る直前でした。
僕は何かしらの用事で大学に来ていたんですが、彼女はいくつかの授業で赤点を取っていたために、追試を受けに来ていたはずです。
私は全ての授業に出席していましたけども、確か彼女は休みがちだったと思います。
フランスの国立大学は、入学費用も安いし、バカロレアと言う大学入学資格持ってる人であれば、書類を出すだけで誰でも入ることができます。
もう、すごく入りやすいんです。
ですから、やることも決まっていないっていう人は、とりあえずみんな大学に入るわけですよ。
でも、結構、卒業できない子も多い。
そもそも、美術史に入ってくる子達は、他の勉強がしたくないから、 美術史に入ってくるなんて子が結構います。
でもいくら絵を見るのが好きと言っても、やっぱりちゃんと勉強しないと試験には通りませんから。
それに高校生の時の勉強と、大学生の時の勉強はちょっと違いますよね。
これさえ覚えればいいっていう教科書はない。
参考文献などをあたって、必要な箇所を自分でピックアップしながらまとめて行かなければいけない。
そういう勉強方法に慣れていないので、大体1年生で半分ぐらいはやめちゃうんですよね。
留年しても、もう一回1年生やる人もいるし、あるいはもう学部を変えてしまう場合もあります。
入学金も何もかからないし、また3万円はらって、別の学部に入ればいいだけですから。日本の大学みたいに、数百万払っているから、せめて卒業しなきゃ、なんてことはないです。
そんな事情もあって、2年にあがる人ってのは結構少ないんですよ。
彼女はどんな事情があったか知らないんだけども、あんまり授業には出てきてなかったんですよね。
で、追試の時にたまたま見つけて声をかけたって感じです。
彼女にサンジャックの道ってのを教えてもらって、
それを彼女と一緒にあるくことを決めたのですが、、、
その後彼女から、やっぱり歩くことができなくなったって連絡がきました。
その理由は特に聞きませんでした。
そうかそれはすごい残念 。
けど僕は自分一人でも歩いてみるつもりだよ、と彼女に答えました。
「Bon chemin ! (よい道を!)」
彼女はそう言ってくれました。
これは、実際に道を歩いている巡礼者にかける挨拶です。
今おもうと、彼女もサンジャックの道を歩かなきゃいけない何かしらの理由があったんだと思います。
自分の進路の問題かもしれないし、家庭の問題かもしれないし、恋人との問題かもしれない。
おそらくそんな彼女を見て、サンジャックの道は彼女に声をかけていたんだと思います。
彼女は、結局2年に上がってきませんでした。
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2011年 8月2日、私はサン・ジャック・ドゥ・コンポステルの道を歩くために、ル・ピュイ・アン・ブレイに出発しました。
つづく