
JTCの会議は集団浅慮の温床-無駄な会議が続く理由
木下斉さんがVoicyでお話されていた集団浅慮(せんりょ)。これは同質性の高い環境だと、グループの意思決定が画一的になってしまい、批判的な意見が出にくくくなってしまう、そのために『意思決定』そのものよりも波風を立てないことが重視され、とんでもない意思決定がされてしまう、というものです。
身近な例で言うと、『失敗の本質』という本で紹介される第二次世界大戦中の日本軍です。彼らは実際の戦線状況へまともに目を向けず、都合のいい解釈だけで突き進み、ご存じの通り、日本の敗戦へ繋がりました。
木下さんの放送では、自分の身近で集団浅慮が起こってる状況はないか?、問いかける表現がありましたが、私の場合一番先に思い浮かんだのは過去の職場(JTC)での会議です。
今考えると、集団浅慮の非効率の塊でした。
JTCの会議概要
私が所属していた研究開発部門では月に一度、進捗を報告し合う定例会議がありました。
その拠点にいる研究開発の人全員が参加するので、60人ほどのメンバーが広い会議室に集まり、ほぼ1日ぶっ通しでプレゼンテーションを聞きます。
また、その定例会議のために本社所属のCTOがわざわざ1時間とか2時間かけて研究所へ足を運び、プレゼンを聞きにきます。
定例会議とはいえ、しょせん進捗報告なので各プロジェクトの代表者がその月の進捗報告をパワーポイントで発表し、それに対してCTOや部長クラスの人間がフィードバックする場でした。
事件勃発
ある日、ちょっと私の実験が忙しかったので定例会議を欠席したことがありました。
資料がオンラインで共有されているので、後で確認してキャッチアップ出来ればいいと思ったのです。
すると、部長に文句を言われました。
『何で定例に出席しないの?ちゃんと出席して』というニュアンスのものでした。
確かに定例に出席すると、自分の所属していないプロジェクトの発表内容から自分の研究のヒントを得ることはあります。
とはいえ、そのプレゼンテーションの資料は事前にオンラインで共有されているので、わざわざ物理的にその会議へ参加し、ほぼ丸1日時間を拘束される筋合いが私にはよく分かりませんでした。
資料にざっと目を通すだけ通して興味のあるところだけそのプレゼンをする担当者へ直接聞きに行くのでは部長としてはダメで、物理的にその場にいること、つまりその会議にいっぱい人がいることを部長としては重視しているようでした。
つまり研究職の人間の生産性よりも、部長は会議を開くことそのものが目的化しているのです。
集団浅慮
開催することが目的化している以外にも、偉い人が発言することでそれに対してはっきりと反論する文化がないので、とりあえずその偉い人からの質問に答えることが定番になっていました。
そのため、偉い人の発言に対して反論するよりもそれっぽく回答する、周囲も黙って出席している方が安全という心理が働いてしまい、かけている時間の割にはかなり形式的な会議だったなと思います。
リモート何それ美味しいの?
同じ会議室内に60人も集まる会議だったため、コロナ禍ではリモートでの参加が会社からは推奨されました。
コロナ禍入ってすぐの数ヶ月ほどはリモートでの参加者も多かったのですが、それが3ヶ月、4ヶ月と経ってくると徐々にリモートで参加する人間が少なくなり、私が退職する直前(まだ絶賛コロナ禍)には9割以上の人間はリモートではなく出社して会議へ参加していました。
手段としてせっかくリモートという選択肢があっても、みんなが出社しているから自分も出社するというおかしな集団心理が働いてるのが悪い意味でとても印象的でした。
これはおそらく研究所内での人間の同室性が高いので異質な意見が排除されてしまい、思考停止が起こってるんじゃないかなと考えました。
実際に私が少数派としてとある会の定例会議にリモートで出席しようとしたところ、この回だけはみんなで顔を合わせて話したいから出社しろ、と部長に言われたことがあります笑 部長が手段に囚われてるようではダメだと思ったことがあります(無事にその後転職)。
リモートを使おうとする少数派の人間に対して、あたかも協調性がないかのように解釈して排除する姿勢も、いわゆる集団浅慮の一つだったのでは、と今振り返って思う次第です。
望ましい会議に向け私ができること
1つ目は手段と目的を切り分けることです。
私が資料を事前に確認して会議当日に出席しないでいると文句を言われた例や、リモートでの出席を阻止された経験から、会議を開くこと・会議の場へ物理的にいることに重きが置かれている点にはものすごく違和感を持ちました。
でも会議で重要なのは、次に何をするかを決めることであって、その場にいることではないはずです。
会議で何を果たそうとしているのかを出席者がきちんと認識していないと、私が経験したようにリモートでの参加を阻止しようとしたり、資料を事前に確認して会議で出席しない人へ文句を言うなど、意味不明なコミュニケーションが散発するのだと思います。
2つ目は情報の共有にはオンラインを使うことです。
定例会議の直前に資料がオンライン上に共有されるので、資料の内容を確認しようと思えば非同期で確認することはできます。
しかしその発表者のプレゼンテーション能力の向上という建前で、その会議のためだけに50人以上の人間が同じ場所に拘束されて会議が開かれるという体制がまかり通っていました。
ただプレゼンテーション能力を上げたいのであれば、別に50人もの人間をその場に集める必要はありません。別のプレゼンテーション講座などを個別に開けばいいだけの話です。
せっかく研究職の人間や偉い人を一定時間拘束するのであれば、事前にこう資料を見ておくように義務化しておいて、その場では次に何をするかを議論する場にしないと、ものすごくリソース観点でも無駄遣いだと思います。
結論
木下さんの今日の配信を聞いて思うのは、当時のJTCの定例会議は集団浅慮が引き起こした非効率の塊だということです。
会議室へ物理的に出席することが目的化しており、別の手段を取ろうとする人間に対して文句をいう風潮があること
その後の方針は偉い人のコメントで決まってしまうので、一研究職の人間からはほぼ反論する余地がないこと
文章にしてみるとその異常さが分かりますが、当時はその環境にどっぷり浸かっていたこともあり、自分がおかしいのかなと思い込んでいました。
でも今振り返ると、当時の違和感は全く間違っていなかったなというか、客観的に物事を見る視点がいかに大切かを今回の木下さんの配信で思い知らされました。
皆さんも集団浅慮に限らず、何か物事に対して違和感を覚えたらスルーせずに深掘りすることをお勧めします。
違和感はたいてい正しい。
それではまた!
いいなと思ったら応援しよう!
