わたしが人生で考え続けたい3つのこと
最近、待ち合わせの関係でちょっとした隙間時間があったので、久しぶりに大きめの本屋さんに立ち寄った。
パンデミック以降は電子書籍ばかり読んでいたので、偶発的な出会いを求めて久しぶりに大型書店を巡回してみたのだが、少し驚いたことがある。
それは、ここ数年のうちに、いや、厳密には遥か前の「ここ十数年のうちに」なのだろうが、明らかに「哲学」コーナーと「宗教」コーナーの境界線が曖昧になってきている。
なんなら、そのコーナーにいわゆる「スピリチュアル系」の本や、「人生の癒し」といったジャンルも堂々と紛れており、ついでに新興宗教や陰謀論としか思えないような似非科学書も混じっている。なんのエビデンスかわからないけど、エビデンスに基づいたらしいその人の人生哲学的なものも混じっている。「科学的」とつければ、少々乱暴なタイトルでもそれっぽく聞こえる。
一体これはどういうことなのかと、わたしは目を疑った。
わたしは、各本のジャンルに拘泥するつもりは毛頭ないのだが、あまりにも人文系の書籍の扱いが「ないまぜ」になってきているのではないだろうかと思わずにはいられない。
これは一括りに、書店員による選書能力の零落だと結論づけていいものだろうか。
人生で考えたいこと
わたしは普段から、世の中の大抵のことはどうでもいいと思っている。
自分の人生に関係のないことを考える行為は、むしろ時間の無駄だとさえ考える節もある。そんな暇があれば、もっと自分の人生に熱中すればいいのに、と思ったり思わなかったり。
でもこういう意味不明な現象には、心の底から疑問を呈さずにはいられなくなる。
それは紛れもなく、わたしにとってそれがすごく重要なテーマだということを再認識するきっかけとなる。
わたしが人生で考えてきたことは、およそ「哲学とは何か」「宗教とは何か」「科学とは何か」に収斂する。
科学について人文学的なアプローチから研究したかったからこそ、わたしはキリスト教の影響が色濃く残る17世紀の西洋哲学を専攻したわけだが、わたしはこれが現代科学の基盤を作ったと考えており、今わたしが好奇心に駆られ学んでいるすべての動機は、そこからスタートしている。
そして(これは大学時代からずっと変わらないことなのだが)、人生をかけて考えたいテーマが、現代における「科学」の「宗教」性を「哲学」したい、ということ。
現代、多くの人は宗教を非論理的だと見做してそこに救いを求めなくなってきたし、むしろその対局にある理性的なものとして科学を重宝する傾向にある。
しかし、「科学的」という言葉の意味を内省する暇もなく、あまりにも無批判に使い過ぎた今、人々が科学を崇める姿勢はまさに信仰以外の何物でもないとわたしには思えてならない。
もちろん科学によって凄まじい勢いで世界は発展したし、メリットの方が多いのは間違いないからわたしも科学的な社会を支持する。
しかし、いやだからこそ、わたしが批判したいのは科学の方じゃなくて、それを取り巻く言葉の意味に鈍感になった人々のメンタリティの方なのだ。