近年の日本論と想像力

巷のニュースで、これからの日本はどうなるのか(どうしていくべきか)、というテーマを見かける機会が増えてきた。

もちろん、これはコロナウイルスの蔓延による影響は大きいと思う。

なぜならコロナ政策の舵取りは基本は政府であるし、その単位は国家になるから、日本という単位を意識する機会は必然的に増えたように思うからだ。

(ちなみに、わたしは国家とか国民国家という概念はうまく馴染めず理解できなし、自分が将来どこに住んでもどこで仕事しても何語を話しても別にいいし、幼少期から地元愛も母校愛も愛国心もあまりない。たぶん、本性としてそういう人間なのだと思う)

これに関してわたしが気になる点は、その論調がだんだんと日本国内だけの閉鎖したテーマになりつつあるし、これからの未来というときの時間軸がどんどん短くなってきているように思われる点だ。

単に経済的な面での余裕がなくなっているからだろうとは思うが、これは想像力の欠如に繋がるのではないかと思う。

つまり反動的に、究極のリバタニアンを生む可能性が高い。

どこにも所属する気などなく自由を謳歌したいと考えるわたしが、わざわざここにきて日本の歴史や天皇制について勉強しなおすのも、おそらくリバタニアン的な自分を抑制したいという気持ちがあるのだと思う。

わたしが最近興味を持っているナショナリズムという思想は、ある意味では日本という国について再考する機会を与えてくれたが、それを学ぶ動機はほとんどが、わたしが「国内から見た日本」と「海外から見た日本」とのギャップによって動かされている。

だから、本当に日本がこれからどうなるべきかを論じるには、やはりいったん出てから語ることが重要なのだろう。

わたしはせめて、この国の自分が生まれる前にいた人間や、自分が死んだ後にいる人間との繋がりを感じられる程度には想像力を維持しておきたいし、現在については、日本国内だけでなくせめて自分が行ったことのある国で出会った人たちの気持ちは想像できる人間でありたい。

それから少しずつ、わたしが想像できる範囲を広げていけたらと思う。

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