つまらなくない人
私は、つまらない人だ。
私は、私をつまらない人だと思ってきた。
私は、周囲の人も私のことをつまらないと思っていると思っていた。
私は、新たに出会う人にもつまらないと思われるだろうと思っている。
私にとっては、どんな他者の存在も面白いのに。
私は、本当は、つまらなくない人でいたかった。
なぜつまらないのかを分析して、その要素を軽減することに努めた。
「私がありのままでいること」=「つまらない人」の等式がみえてきた。
それに気づいたのは小学生の時だった。
まじめに、正義感をもって、一生懸命誰かのために動く私は、
先生にとっては、つまらなくない「児童」だった。だから成績はいい。
親にとっても、つまらなくない「娘」であった。だから褒めてくれる。
そこに、つまらない「人」だという自認・他者評価とのギャップが生じていた。どんなに先生にとって「良い児童」であっても、人間として面白いわけでも、絵や歌が上手なわけでも、かわいいわけでも、モテるわけでもなかった。容姿をひたすらにいじられて嫌な気持ちをどうすればいいか分からなくて、いじられるのが好きなキャラを演じる。これによって集団でつまらなくない人であることを保った。教室での私の存在を守った。
中学になってからは、この戦略ではうまくいかなくなった。
私は埋没した。集団に、学校に、社会に。
他者と比べて中身がないことに、非常に恐怖感をおぼえた。私は何か得意なことがあるわけではないし、おしゃれも美容もよく分からないし、勉強も微妙だし、コミュニケーションや人との距離感もよくわからないし、先生とは仲良くなれないし、アイドルが好きなわけでもないし、本に詳しいわけでもない。ただ、普通に生きてきた子どもであった。善意や道徳心や努力できる強さは持っていたが、それは集団にとって魅力的ではなかった。
私は、この負い目に苦しめられ続けてきた。死にたくなるほどに。
高校生、大学生という暗黒期。私の枯れた心を育んだ時期。
でも今、私は私が面白いと思うことが増えた。
大学院生になって、誰かが創った"良い"基準を目指さなくても良くなって(一定の価値というものがない世界、自分で切り開かないといけない世界へと解き放たれて)、息がしやすくなって。
私はようやく、「ありのままの私」を直視できるようになった。
内なる私に、慈しみをもてるようになった。
育つことのできる環境を、栄養を与えたいと思うようになった。
これはこれでありなんじゃないかなと。
こんな人間がこの世界にいても、まぁ面白いんじゃないかなと。
多くの他者からは、相変わらずつまらない人に見えていることだろう。
たぶん一般的には分かりにくくて、見えにくくて、お金にもならない何かが私の光る原石なのだと思うことにした。磨いていけばいつかは社会と共感しあえる価値になれると信じている。
研究という作業が性に合っていると感じるし、基本的に楽しい。
みんなが嫌がる作業も、知りたいやりたいと思う。
それを面白いと言ってくれる人も増えた。それは心地いい。
そのような人びとは、居心地のいい仲間。
逆に、興味のない人は私に対する無関心を貫いている。それも心地いい。
もう関わらないようにするし、私もエネルギーを割かない。
二十数年がかかってしまったけれど、私が信頼を置けるコミュニティを見つけるための準備が整いつつある気がする。
あなたにとってつまらない人は、私にとってつまらなくない人。
判断基準、価値基準は十人十色で当たり前。
全員と分かり合えるような、そんな甘ったれた社会ではない。
その中で、誰かに面白いと言ってもらえるのは幸せなこと。
そうでない時は、私自身が誇りをもって私の面白さを語れればそれでいい。
だから、
私は、私をつまらなくない人だと思うことにしよう。
私は、私のことをつまらなくないと思う人もいることを知っている。
私は、私をつまらなくないと思う人を探して新しく出会うことができる。
私も、相手を、世界を面白いと感じて満たされる。